今週末に発売の『表現者クライテリオン』3月号に、フェミニストの柴田英里さんとの対談「「議論しないフェミニズム」はどこへ向かうのか?」の後編が載っています! 前編の紹介はこちらから。
今回も盛り沢山ですが、特に注目なのは、柴田さんに美術家としての哲学を伺うなかで――
柴田:アイデンティティを構築する上では排除の段階が必要不可欠だと思っていて、「自分は男ではないから女だ」というように、何かを排除しなければカテゴリー化はできないですよね。
そうすると必然的に、自分のアイデンティティを獲得する際に何かを排除することは差別なのかという疑問……が出てきます。(中 略)
與那覇:……そう捉えるセンスがあれば、ダークサイドの一切ない「クリーンな社会や人間」を作ろうとする思考からは、本能的に距離が取れる。炎上を招く「問題芸術」は展示を禁じろといったキャンセルカルチャーに、抵抗する基盤にもなりえます。
『平成史』(文藝春秋)でも引きましたが、僕はヴィスコンティのLGBT映画とも言える『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)について、自決直前の三島由紀夫が書いた讃辞が好きなんです。ナチズムを「告発する」という口実を設けつつ、実際には見る者自身の中にある退廃や悪徳への欲求を、擬似体験を通じて発散する。
三島はそうした悪しきものとの付き合い方が、人が健全でいるためには不可欠だと唱えましたが、近いものを感じました。
105頁
強調と改行を附し、算用数字に改定
ジュリア・クリステヴァが唱えた「アブジェクション」(おぞましさの棄却)の概念をめぐる議論ですが、アートに限らず、いま世界の深刻な課題ってぜーんぶ、これが関わっているんですな。
たとえば普通に考えて、テロリストはおぞましい。でも、その巣窟だから「ガザなんてアブジェクト(棄却)しろ」、それでしか平和な秩序は守れない! と言われたら、「えぇっ?」となる。
プーチンのウクライナ侵略も、同じようにおぞましい。なので「棄却! 棄却!」と叫ぶことが自由世界の一員としてのアイデンティティになるけど、そのままどっぷりハマってしまうと、実際には棄却できない現実を受け入れられずに、本人がおぞましい永久戦争屋さんになってしまう。
24年11月の時点で
「殲滅を目指す」んですって。
当時の戦況はこちら(BBC)
生理的にダメ、みたいな言い方があるけど、なにかを「おぞましく」感じて、自分はそうじゃないぞと思うこと自体は人間の条件だ。ところがその勢いで「おぞましさゼロの世界」をめざすと、いつしか自分こそ、忌避する対象に似通ってくる。
かつてあった「悪しき社会」の痕跡を抹消して、意識高くキラキラした「理想社会」を作ろうとすると、かえってスターリン時代にそっくりな「検閲社会」ができてしまう。そんなポリティカル・コレクトネスの逆説は、前にも紹介してきた。
しかし、どうして人間は「自分でないもの」を排除してしまうのか。棄却の行き過ぎがもたらすバックラッシュ(反動)を回避して、「おぞましさ」と適切につきあうには、どうすればいいのか。
2/16(日)の配信イベントに向け再読していた、池田信夫さんの『平和の遺伝子』に、考えるヒントがあった。
死体や排泄物についてのタブーはどの文化圏でもきわめて強いが、乳幼児やブッシュマンにはみられないので、定住生活で生まれた文化遺伝子である。墓地や便所が日常生活から隔離されたのは感染症を防ぐためだが、それは人々の感情に刷り込まれ、強い禁忌となって受け継がれた。
葬儀に糞尿を使う慣習は、未開社会に広く見られ……葬式の前後には性的なタブーも解除されることが多い。こういう慣習は先進国にも残っており、ニューオーリンズでジャズが生まれたのは、墓地に隣接する売春街だった。日本でも、吉原の遊郭は鶯谷の墓地に隣接していた。
『平和の遺伝子』68頁
棄却したものを「この世からなくせる」と思い上がると、しっぺ返しが来ることを知っていた人類は、おぞましさに惹かれる禁忌破りの快楽をむしろ受け入れ、ただし芸術や美意識の形に昇華することにしたのだ。それが、柴田さんとの対談で引いた、三島由紀夫の主張である。
三島が言及する『地獄に堕ちた勇者ども』の素材は、長いナイフの夜(1934年)。自分たちのおぞましさに自覚的だったナチス突撃隊が、「退廃ゼロ」を謳う親衛隊に粛清され、一見クリーンなかわりに純粋な恐怖の組織となってゆく筋立てで、いわば「極右ポリコレ」の顛末を描く。
で、現にいま、コロナ期には比喩でなく「クリーン」な秩序を目指した米国民主党系のポリコレが、オセロみたいにひっくり返って、トランプが指揮する右版のポリコレと、イーロン・マスクによる政府機関の粛清が始まっている。あーあ、だったら最初からやんなきゃよかったのに。
……そうした時代に持続可能なフェミニズムを模索する、柴田英里さんとの対談が、広く読まれることを願っています。あと2/16の配信と、あまりに予見的に過ぎる以下の2021年の書物も、よろしくお願いします!
〝二十世紀はナチスを持ち、さらに幸ひなことには、ナチスの滅亡を持つたことで、ものしづかな教養体験と楽天的な進歩主義の夢からさめて、人間の獣性と悪と直接的暴力に直面する機会を得たのである。これなしには、人間はもう少しのところで人間性を信じすぎるところだつた。〟
平成で言い換えれば、21世紀はトランプを持ったことで、もう少しのところで民主主義を信じすぎることから免れた、となるでしょう。そしてトランプ的なものもまた「幸ひなこと」に滅んでゆくのかどうかは、トランプ自身が2020年に再選を阻まれたいまでさえも、皆目わからない状態にあります。
映像作家はナチズムの過去を「巨大なスケイプ・ゴート」「悪を描く免罪符」に用い、ナチスの蛮行を告発するという大義名分で、自身の内なる邪悪さを解き放つというのが三島の論旨でした。しかし2016年以降の世界ではむしろ、虚構のセカイで発散されてきたはずの「既成秩序の全否定」への欲求が、現実の政治に溢れ出ていったのです。
拙著『平成史』479-480頁
” ” 内は三島の引用
(ヘッダーは『地獄に堕ちた…』の著名なシーン。シネマトゥデイより)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年2月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。