ミュンヘン会談の教訓は本当にトランプ大統領を否定できるか

トランプ大統領によるロシア・ウクライナ戦争の停戦調停が本格化しようとしてきている中、「ウクライナは勝たなければならない」主義の方々が、トランプ大統領は、1938年ミュンヘン会談の「宥和主義」の過ちを繰り返そうとしている、と主張している。

この主張は、どこまで妥当だろうか。

われわれは絶えず歴史から教訓を導き出し、そこから学びを得ようとする。時代は変わっても、人間の社会に一定の共通性のあるパターンが起こりうることは確かだからだ。

他方、人間の歴史に、全く同じ事柄など発生したことはない。歴史の教訓なるものは、常に歴史の解釈者側の関心によって生み出されるものでしかない。関心が過度に偏っている場合に、歴史的事実の軽視や歪曲も度外視されてくることもある。ある一つの歴史的事件から、全く異なる立場の人々が、全く異なる教訓を引き出してくることは、よくあることである。

1938年ミュンヘン会談の「教訓」とは、領土拡張主義を追求する者に対しては、領土の割譲を通じた譲歩は、さらなる領土拡張を止める効果を持たない、というものだろう。この教訓は、極めて論理的な推論のことを示してもいるので、非常に説得力がある。

ミュンヘンに集まった英仏独伊の首脳。
左からチェンバレン、 ダラディエ、ヒトラー、ムッソリーニ、チャーノ伊外相
Wikipediaより

ただし実際の「ウクライナは勝たなければならない」主義の方々の1938年ミュンヘン会談の解釈について言えば、いくつかの神話的な要素がある。

第一に、当時のイギリス首相チェンバレンが、ヒトラーの危険性に気づかず、ヒトラーに騙されて「宥和政策」をとってしまった、というのは、史実に完全には合致していない。

チェンバレン内閣は、第二次世界大戦勃発に先立ち、ミュンヘン会談後から、大軍拡路線に舵を切った。ヒトラーの危険性に気づいたからである。ミュンヘン会談の結論は、1938年の段階でドイツと戦争をしても、準備のないイギリスは不利だ、という現実主義的な判断によるものであった。

事実として、1939年にヒトラーがポーランドにまで侵攻するのを見て、宣戦布告をしたイギリスとフランスは、瞬く間に戦場でドイツに駆逐されてしまった。ドイツとの戦争は簡単なことではないというチェンバレンの考えは、間違っていなかった。ヒトラーを強く憎んで一切の交渉を断ってさえいれば、第二次世界大戦を防げた、と考えるのは、非現実的である。

そもそも「ウクライナは勝たなければならない」主義の方々であっても、「アメリカは参戦すべきだ、欧州諸国とともに日本も戦争に参加するべきだ」と主張しているわけではない。ロシアとの戦争が、少なくとも簡単なものではないことを、知っているからである。

それにもかかわらず、「ウクライナは勝たなければならない」とだけ主張することは、どういうことだろうか。1938年のチェンバレンに「チェコスロバキアはドイツと戦争をして勝たなければならない」と主張させることに等しいだろう。チェンバレンが、そのような主張をしなかったのは、「宥和政策」をとりたかったからではなく、そのような主張の非現実性を自明視していたからである。

第二に、1938年のミュンヘン会談の最大の問題性は、交渉によってチェコスロバキアの領土割譲を正式に確定させようとしたことである。これは国際連盟規約に反する行為であった。現代であれば、国連憲章違反である。

トランプ大統領は、停戦は語っているが、領土割譲を正式に宣言せよ、とウクライナに迫っているわけではない。停戦というのは、ある程度の領土の帰属に関する認識を曖昧にしながらも、まずは達成してみようとする試みのことだ。そうでなければ、北方領土問題を抱える日本がロシアと戦争をしていないのは、国連憲章違反だ、ということになってしまう。

第三に、1938年の「宥和政策」が1939年のポーランド侵攻を招いた、と仮定しよう。それは「宥和政策」が、ヒトラーの心理に甘えを抱かせたからだ、という仮定によって成り立つ主張である。

だが別の観点から言えば、実効性のある抑止策を導入できなかったがゆえに、さらなるヒトラーの侵攻を防ぐことができなかった。問題は、抑止策である、と言うこともできる。

現在のロシア・ウクライナ戦争をめぐる停戦案では、欧州軍のウクライナ領への展開などの再侵攻を防ぐメカニズムが議論の対象になっている。こうした措置は、侵略を防ぐのは、「ウクライナは勝たなければならない」といった言葉による心理ゲームではなく、現実世界における抑止力の有無である、という考えにもとづくものだ。

換言すれば、現在協議されている停戦合意の内容は、抑止力の導入によって再侵攻を防ぐことを目指したものだ。

ミュンヘン会談のような歴史的事例から、「宥和政策」であろうが「威嚇政策」であろうが、心理ゲームだけを繰り返していても、効果はない、現実の抑止策こそが、将来の侵略を防ぐ、という教訓を引き出すこともできるのである。

トランプ大統領が非常に際立った性格を持つ人物であるがゆえに、自分の願望に反したトランプ大統領の行動を、全て支離滅裂なものとみなしてしまいたい、という衝動を抑えきれない方々が、多々いらっしゃる。

しかし国家としてのアメリカは、すでに3年間も大規模な支援でウクライナを支援してきた。それにもかかわらずウクライナは、特にザルジニー総司令官罷免後のゼレンスキー大統領は、クルスク侵攻のような冒険を試みるだけで、ロシア軍に負け続けている。アメリカが、疲弊を感じて、新しい段階に進みたいと考えるに至ったとしても、それは驚くべき事態ではない。冷静に状況を分析していく態度が必要だ。

篠田英朗国際情勢分析チャンネル」(ニコニコチャンネルプラス)で、月2回の頻度で、国際情勢の分析を行っています。