伊藤詩織が監督したドキュメンタリー「Black Box Diaries」が第97回米アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされ、受賞の下馬評が高まっている(授賞式は2025年3月2日)。
彼女は性暴力被害者としての経験を実名で公表し、日本の司法制度に異議を唱えたことで国際的な注目を集めてきた。
その経緯はすでに周知の事柄なので、ここでは繰り返さない。
ただ、先日(2025年2月20日)この映画に無許可の映像・音声を使用した事実を認め謝罪したことで、事態が急変した。日本国内では新たな議論が沸騰。この件についてはこれまで断固耳を傾けない姿勢を固持していた彼女が、いったいどうして今?と。
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彼女への評価は、そもそも日本と欧米で極端に分裂している。欧米圏では「男性優位社会に立ち向かう勇気あるジャパニーズウーマン」、日本国内では「美貌と英語力を武器に、欧米メディアの威光を背に攻撃と復讐を続ける女」。
この二つの顔は、メディアのフレームや支援者の戦略的欠如によって形成された。本論は、その分裂の背景と原因を探り、支援のあり方がどう変わり得たか、その試論を行いたい。
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Evgeny Gromov/iStock
欧米での顔:#MeTooのヒーロー
欧米圏の言論空間において、伊藤詩織は#MeToo運動の象徴だ。2017年に実名で性被害を告発し、さらには2019年のBBC特番「Japan’s Secret Shame」を追い風に「抑圧されたアジア女性が声を上げる」物語の主人公として祭り上げられた。
彼女が自ら監督した告発ドキュメンタリー映画「Black Box Diaries」はサンダンス映画祭で称賛され、50カ国以上で上映、18の賞を受賞。英語を流暢に操り、美貌を備えた彼女は、その英語力のおかげでとりわけ英語(事実上の世界公用語)圏の視聴者に親近感を与えてきたのだった。
2月20日の謝罪メッセージも、日本国外では「自己反省を示す誠実さ」と受け止められ、米アカデミー賞受賞の正当性をむしろ補強すると予想される。無許可素材使用は「性暴力の現実を伝える公共の利益」と正当化され、倫理的問題は「より大きな目的のための犠牲」として許容される。受賞すれば、「トラウマと、性差別社会の不条理を乗り越えた、勇気あるアジア女性の勝利」として米メディアからは讃え、ヒーロー像もさらに強化されるであろう。
日本での顔:攻撃者としての孤立
日本では、彼女のイメージはその真逆だ。実名公表や海外メディアへのアプローチは「日本のルールを無視し、英語力で注目を集める」と否定的に映り続けている。
2025年2月の謝罪表明後、元弁護団(西廣陽子弁護士ら)が「裁判資料の誓約違反」と非難し、「8年半守ってきたのにズタズタにされた」と失望を表明。Xでは「偽善者」「自己中心的」との声が飛び交い、映画公開中止や大手メディアからの敬遠が続く。
オスカー授与が確定すれば「謝罪したのに賞を取る矛盾」や「海外での評価に便乗」という不公平感から批判が過熱するのは必至だ。彼女の美貌や英語力は、「特権を武器にした傲慢さ」として攻撃の的となり、「復讐に固執する女性」というイメージが定着するだろう。
BBCの演出と西洋中心主義の罠
そもそも分裂を加速させたのは、あのBBC特番の演出だった。加害者とされる男性をカメラで追い回すシーンは、欧米圏では「真相を暴くジャーナリズム」、しかし日本では「プライバシー侵害」と映った。
批判的な日本人の発言は(英語を話さないという表向きの理由で)英語字幕で紹介し、伊藤は英語でダイレクトに語りかける構図は、「英語ができないアジア人=野蛮、できるアジア人=名誉白人」という、19世紀より根強く続く二元論を、結果的に再生産するものとなった。
このシンプルな二項対立の図式は、オリエンタリズムの名残だ。伊藤を「西洋に理解できるアジア人」として持ち上げ、日本の社会を「遅れた野蛮」と描くことで、欧米視聴者とりわけ英語圏の人びとに感動的な物語を提供した。
しかし日本の視聴者にすれば「見下されている」と感じてしまう。「彼女が欧米メディアと結託して日本を貶める」という不信感を植え付けた。彼女がこの演出にどこまで関与したかは不明だが、その関与度合いに関わらず、「二つの顔」のギャップを広げる器となったことは否めないだろう。
支援者の盲点:戦略的視点の欠如
なぜこの分裂が防げなかったのか。彼女の支援者たち(弁護団、フェミニストなど)は、被害者としての経験に共感し、「正義の追求」に感情的に結びつきすぎた。そのうえ国際的評価への過信から、BBCを典型とする欧米メディアの演出が日本国内でどう映るか、反発をどう和らげるかを思慮しなかった。日本の「和を重んじる」文脈への配慮が欠け、「個人 vs 社会」の対立的なアプローチを採用した結果、彼女は「攻撃者」の役柄をあてがわれてしまった。
もし裁判闘争中(またはその開始前)に支援者が「英語中心の訴えが不公平感を生む」と彼女に警告し、日本語での対話も必ず伴わせる戦術を提案していれば、共感者が増え、批判も和らいでいたのではないか。
くだんのドキュメンタリー映画についてもそうだ。無許可素材使用を事前に洗い出し、弁護団との信頼を維持していれば、現在の孤立は避けられただろう。支援者が短期目標に集中し「国内でのイメージ管理」を軽視してきた、そのツケが彼女ひとりに押し寄せてきた――そんな風に見えてしかたがなかった。
もし裁判闘争時に耳打ちがあれば
私事になるが、筆者は複数の言語でいろいろな文化圏、国、地域の人間と長年にわたって交流し、時には衝突、激論も交わしてきた。日本人でありながら日本で理解されず、といって国外では日本人の典型役を強いられる苦痛も味わった。
もし私が、伊藤の支援なりブレイン・チームの一員だったならば、きっとこう耳打ちしただろう。「あなたの英語力と欧米とりわけ英語メディアへの訴えは強力だが、日本では『外圧を利用する攻撃』と映ってしまう。日本語で丁寧に対話し、司法への批判を『改善を求める』トーンに抑えれば、国内の共感者を増やせる。BBC等の演出には慎重に対応し、『英語ができない=野蛮』という彼らの撮影・報道フレームは、極力たしなめるようにしてほしい」。
そうすれば「欧米のヒーロー」と「日本の攻撃者」の分裂を緩和し、普遍的な支持を得られたかもしれないのだが…
王蟲の暴走を彼女ひとりでは止められない
伊藤の「二つの顔」は、メディアのフレームと支援者の配慮不足が作り上げたものに思えてならない。くだんの映画のアカデミー・ドキュメンタリー映画部門受賞が現実になれば、欧米での賞賛と日本国内での批判がさらに深まり、彼女は国際的なヒーローとして成功する一方、国内での孤立を余儀なくされる。
この分裂は、グローバルな活動をする日本人が直面する文化的ギャップを象徴する。彼女が、いやもっとはっきりいうとブレインや支援者たちが、もっと戦略的視点を持っていれば、彼女の闘いはもっと実りあるものになっていたのではないか。
彼女が「ドクターストップがかかるほど精神的に参っている」という報道が事実なら、その重圧は想像に余りある。欧米での称賛と日本での非難という相反する期待の中で、彼女は分裂したアイデンティティを背負わされ続けた。
そしてもし彼女の映画が、数ある映画の祭典で最も華々しい米アカデミー賞を授与されることになれば、この引き裂かれは決定的なものとなるだろう。アニメの美少女ヒーローならば、制御不能となった欧米的正義感の暴走をひとりで食い止めて故郷の民を救い、そのご褒美に生き返りとともに名誉回復も果たすところなのだが――
映画での不適切画像使用への謝罪と差し替えを(予定されていた日本外国特派員協会主催の会見にこそ現れなかったが)表明したのも、聡明な彼女のことゆえアカデミー賞を受賞してしまった場合の事態を予測しての、ダメージコントロールと見る向きもある。
おそらくはその勘ぐりどおりなのだろう。なにしろ賞の最終投票が、ちょうどその前日の午前10時(日本時間)に締め切られていた。
彼女の「勝利」が、投票箱のなかですでに確定しているのだとしたら…
しかし伊藤を批判する前に、彼女をここまで追い詰めてしまった、見えざるプレートテクトニクス――西洋を発祥とする善意の植民地主義に基づく人権ファシズムやステロタイプ化等の入り混じった地球規模の妖怪――にこそ目を据えるべきではないか。その視点こそが、迫りくる身の破滅を前にして(おそらく)おののいている彼女の恐怖と激痛を和らげ、その闘いの真価を再評価する第一歩となるだろうと、私は考える。