今週発売の『文藝春秋』4月号にも、連載「「保守」と「リベラル」の教科書」が掲載です。なんとついに! 今回、歴史学者の著作が初登場(笑)。
東大西洋史の教授で、のち総長も務めた林健太郎が1963年に刊行した中公新書の古典『ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの』です。
文学部長だった東大紛争時、全共闘と渡りあって名を上げた林は、中曽根康弘に乞われて自民党の参院議員も務め「保守派」と呼ばれますが、敗戦直後はむしろ共産主義にシンパシーを持っていました。その思想遍歴を描いた『昭和史と私』も名著ですが、左から右までを自ら体験しただけに、ドイツ政治史の描写にも味があります。
先月以来、世界で話題のAfDの躍進も視野に入れての紹介は、先のリンクから見ていただくとして、文字数のため割愛した大事な挿話を。
『ワイマル共和国』には、1924年に行われた「二つの裁判」という印象的な節があります。ひとつ目は、ミュンヘン一揆に失敗し逮捕されたヒトラーのもので、持ち前の熱弁による自己弁護が逆に共感を集め、出獄後に台頭する基礎を築いてしまったことは、知る人も多いでしょう。
反逆罪なのに「半年で保釈可」という
激甘な判決で、獄中でも優遇され
『我が闘争』を書いたことは有名。
写真はAFP通信より
しかし今日むしろ印象に残るのは、当時の大統領エーベルト(社会民主党)が原告となった、もうひとつの裁判の叙述です。
あるナチ党員が、エーベルトは〔第一次〕大戦中、1918年1月の軍需工場のストライキに参加したがゆえに国家に対する叛逆者であるという非難を行ない、ある地方新聞がそれを大々的にとり上げて宣伝したのである。
エーベルトはその責任者を誣告罪として告訴した。ところがその判決は奇妙なものであった。それは誣告罪が成立することは認めるが、エーベルトの行為が叛逆に価いしたことは事実であるというものであったのである。
(中 略)
それは戦時下の帝制ドイツにおいても叛逆罪に問われはしなかった。それが革命によって成立したワイマル共和国の裁判官によって、叛逆行為と認定されたのである。……右翼勢力はこの判決に狂喜してエーベルトに罵言を浴びせた。しかし他のだれよりも愛国者であると信じ、そして事実そうであったエーベルトにとって、これは耐えがたい苦痛であった。
120-1頁
段落を改め、強調を付与
「裁判に負けても判決文で勝つ」というのは、今日の行政訴訟でも見られるパターンですが、名誉毀損でそれをやった格好ですね。エーベルトの心労は重く、まだ54歳だったのに翌年2月に急逝。
ワイマール憲法の起草に関わり、中道派で幅広い支持を集めたエーベルトは「党派は違っても、なんとなくこの人なら安心」と思わせる稀少な人材でした。続く大統領のヒンデンブルクは陰謀史観に固執し、筋悪な側近に操られる「軽いみこし」で、最後はヒトラーの首相任命へと至ります。
……で、ずっと書いてますけど、議会の選挙をスキップして「司法で民主主義を実現しよう」、リアルとネットのデモで「これが民意だ!」みたいなお気持ちを突きつけ、寄り添った判決を出してもらおう的な流れが、いまありますでしょ? とくに、先進国で。
エーベルトがストに加わったのは、過激派を抑えて事態を収束させるためで、実際に当時は罪に問われなかった。ところがそれを①後出しの基準で「悪だ!」と断定し、②だから公職にふさわしくないぞと煽るのも、昨今のキャンセルカルチャーと同じですよね。
もちろんそれは「右からのキャンセル」なので、左の側から「正しい目的」で同じ手段を使うのは別にいいんだ! と言い張る理屈はあり得るし、現にそういう人も居るわけですけど。んん? それって「ナチスの手口」は便利だねって話と、なんか違うんですかね。
ありましたねこんな失言。
2013年8月のANNより
……同じですから(笑えない)。
他人事じゃなくて、日本でも5・15事件(1932年)の審理に減刑の嘆願書が殺到し、軍法会議で首相を殺しても禁固刑でOKな「お気持ち判決」が出たことが、後の軍人の暴走を招いたと言われます。
今年はナチス・ドイツと、帝国日本の滅亡からちょうど80年。特定の党派に偏らず、正しく歴史に学んでみたい方々に、ぜひ今月の『文藝春秋』を紐解いていただければ幸いです!
(ヘッダーはWikipedia「ミュンヘン一揆」より。右から4人目の被告がヒトラー、手前に立つのが突撃隊長となるレーム)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年3月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。