ローマ教皇フランシスコは26日午後(現地時間)、バチカンから少し離れたサンタ・マリア・マッジューレ教会の墓地に葬られ、第266代のペテロの後継者に選出された教皇の12年の歩みに幕が閉じられた。

フランシスコ教皇(在位2013年3月13日~2025年4月21日)の葬儀ミサに集まった人々、2025年4月26日、バチカンニュースから
初の南米出身でイエズス会に所属していたフランシスコ教皇には就任直後から従来の教皇には見られないサプライズがあった。コンクラーベで教皇に選出された時、ブエノスアイレス大司教のホルへ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿は一つだけ条件を出した。教皇名にフランシスコを使っていいのならば教皇任命を受諾したいというものだった。
歴代の教皇名にはフランシスコ名はない。フランシスコ教皇は清貧の聖人と呼ばれたアッシジのフランチェスコを愛していた。教皇になるのならばその名前を名乗りたいという願いがあった。そしてベルゴリオ枢機卿はフランシスコ教皇となった。正式にはフランシスコ1世だ。ひょっとしたら、将来、2世、3世のフランシスコ教皇が誕生するかもしれない。
フランシスコ教皇の過去12年間の歩みについてこのコラム欄で既に書いたので、復活祭が終わった直後の聖月曜日(4月21日)の早朝に亡くなった教皇の前日の歩みを少し振り返りたい。
フランシスコ教皇はサン・ピエトロ広場で行われた復活祭のミサは代理人をたて、自らは車椅子でサン・ピエトロ大聖堂のバルコニーに姿を見せると、広場に集った約3万5000人の信者たちから暖かい拍手で迎えられた。教皇は「復活祭おめでとう」と皆に挨拶し、記念ミサ後、サン・ピエトロ大聖堂のロッジアから「ウルビ・エト・オルビ」の祝福の言葉を述べた。イースターのメッセージはディエゴ・ラヴェッリ儀式長が代読した。その後、フランシスコ教皇はオープンカーに乗ってサン・ピエトロ広場を通り、信者たちの歓声に応えている。フランシスコ教皇はキリスト教会の最大の祝日の復活祭を自身の体力が続く限り行った直後、亡くなった。
バチカンは23日から25日の3日間、フランシスコ教皇の遺体をサン・ピエトロ大聖堂に安置し、世界の信者たちに教皇に最後の別れをする機会を提供した。メディアによると、3日間で25万人の人々が遺体の前で祈りを捧げたという。バチカン側は大聖堂を閉鎖して26日の葬儀ミサの準備をしなかればならなかったが、多くの人々がまだ列をなしているのを見て、大聖堂の閉鎖時間を延長せざるを得なかったという。
サン・ピエトロ大聖堂まで続く長い列を見ながら、3年前のエリザベス・ラインを思い出した。英国のエリザベス女王の国葬が2022年9月19日午前、ロンドンのウェストミンスター寺院で挙行された。女王は9月8日、滞在中のスコットランド・バルモラル城で死去した。96歳だった。国葬の前日まで、多くの人々が女王に感謝と弔意を表明するためにテムズ川沿いから女王の棺が安置されたウェストミンスターホールまで7キロ余りの長い列を作った。英メディアではエリザベス・ラインと呼ばれ、100万人以上の国民が集まった。列の中にはオーストラリアやカナダなど海外からきた人々の姿もあった。10数時間も外で待機している人々の規律ある姿は海外でも大きく報道され、話題となった。
父ジョージ6世の急死(1952年2月)を受け、当時王女だったエリザベス2世は女王に即位、その後70年間、公務を行ってきた。女王は21歳の誕生日、「自分はどれぐらい生きるか分からないが、国のために最後まで忠誠を尽くしたい」と述べたといわれる。女王はそれを実行したわけだ。英国民はエリザベス女王の国への献身に心が動かされていた。
同じように、フランシスコ教皇が死の直前までその聖職に献身した姿に信者ばかりか、多くの人々が感動したといわれる。ベルリンのアンドレアス・ハンブルガー臨床心理学教授はドイツ民間放送ニュース専門局ntvで、「多くの人々が復活祭での教皇の歩みに心を動かされた」と述べている。
エリザベス女王は70年間、フランシスコ教皇は12年間、与えられた使命を命が続くまで献身的に行ってきたという点で似ている。誠実に与えられた使命を全うする姿、生き方は国、民族,宗派を超えて、人々を感動させ、最後の別れを告げるために長時間、立ち続けることができるわけだ。エリザベス・ラインに倣って、大聖堂まで続いた長い列をフランシスコ・ラインと呼びたい。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年4月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。