平成の後半、村上春樹さんが「ノーベル文学賞を獲るかも?」と報じられ出したとき、一定の年齢以上の人はびっくりしたと思う。1980年代から人気は絶大でも、イマドキのファッション(とSEX)の描写で売れてるだけのチャラい作家、みたいな偏見が、ずっと強かったからだ。
「両村上」と呼ばれ、始終ライバルのように比較されたのは村上龍だけど(ちなみに本人どうしは、むしろ仲がよかったらしい)、90年代の終わりまでは「龍がホンモノの文学で、春樹はニセモノ」と見なすのが、文芸批評の定番だったことを、2001年に斎藤美奈子氏が書いている。
〔問題は〕両村上比較論者は、なべて最後は村上龍に軍配を上げていることです。この傾向は、『ノルウェイ』vs『ファシズム』、『ねじまき鳥』vs『五分後』と時を下るにしたがって顕著になってきました。
龍を称揚するために春樹を落とす、あるいは龍の特質を際だたせるために春樹を利用するという図式。逆はありません。
『文壇アイドル論』文春文庫、249頁
(段落を改変し、強調を付与)
なお根拠として引かれる批評家は、
笠井潔・渡部直己・柄谷行人・大塚英志
いまからすると信じがたいけど、現にそうだったのである。なんでここから誰にも予測不能な「大逆転」を、村上春樹が世界の文学市場で起こしたかというと、ビールをやめたからかもしれない。
……ぼくがトンデモで言ってるのじゃなく、初期から一貫して「春樹文学」を擁護してきた例外的な批評家に、加藤典洋がいる。彼が1996年に出した『村上春樹イエローページ』は、ゼミ生を総動員して(当時の)全長編8作を細かく読み解いた成果だけど、作中で登場する飲み物の種類と回数について、調べたコラムがある。
有名な「ジェイズ・バー」が舞台になる、1979年のデビュー作『風の歌を聴け』では、ドリンクはビールの50回が圧倒的で(2位のワインが10回)、水は飲まない。ところが94~95年の『ねじまき鳥クロニクル』では、首位は水の70回で、次点もコーヒーの69回。ビールは63回で3位に後退する。
加えて、飲み物以外での「水」(溺れる対象としてとか)の登場回数が、『風の歌』の1回から131回へと爆増している。
いまや村上の小説は水なのだ。ビールは嗜好品で風俗の一端をになっている。これに対して水は人間の生存に必要な無味無臭の液体だ。ビールから水へという変化は村上の作品の乾いた抒情をたたえる都市小説から、人間存在の深淵におりる現代文学への変化を象徴している。
ちなみにこれをウィスキーについてみるとバーボンからスコッチ。『ねじまき鳥クロニクル』ではカティサークが大活躍する。なぜバーボンでないのかは謎。
幻冬舎文庫・第2巻、232-3頁
赤ちょうちんじゃなくてバーですよ、熱燗じゃなく洋酒ですよ、なPRが要らないくらい、普遍的な問いを小説のなかで考え始めたことが、「ビールから水へ」に表れたというわけ。それでもさすがに、なんでカティサークかは不明らしいけど。
先述のとおり、加藤さんがそんな評論を発表したのは、1996年。総計31名のゼミ生と、2年近くをかけての成果で、全員の名前が謝辞に残る。いまなら電子テキストを読み込ませれば、生成AIでもデータの数値を出すところまではいくだろう。
村上春樹の小説では、どんな飲み物が飲まれていますか?
と、訊けばいいわけだから。
では『村上春樹イエローページ』は、ぶっちゃけもう「AIに代替される仕事」なのか。そうじゃない点が、いますごく重要だ。
そもそも①村上春樹(以外の人でも)を理解したいという欲求は、人間にしかなく、AIには湧かない。その欲求がなければ、あらすじと無縁な②細部にこだわって問いを立てることを思いつかない。さらにはデータが示されても、それを③相手の内面で生じた変化の反映として解釈できない。
「この人を理解したい!」という気持ちを持つこと。それがAIに代わられない生き方の出発点になる。要約するだけなら「AIに投げれば秒で終わるジャン?」と言われてしまう今日、なにがあれば「自分にしか書けない」仕事ができるのかを、加藤さんの春樹論は教えてくれる。
土曜に出た『文藝春秋』6月号の「「保守」と「リベラル」のための教科書」で、同書を採り上げた。AI時代を生き抜くコツが、リベラルであるための条件と、ぴたり一致するとの含意を込めて。
恥ずかしながら、お気づきのとおり、いよいよ15日に発売が迫る拙著『江藤淳と加藤典洋』のCMを兼ねてでも、あるんだけど(苦笑)。
Amazonの「文学史」のカテゴリでは、発売前から1位を獲る時期もあったりしたそうだ。まさにみなさまのおかげで、感謝のかぎりである。
拙著にはぼくの『ねじまき鳥』論を再録し、『ノルウェイの森』が戦後史で持つ意味にも触れた。「やがて政治はAIが決め、経済もAIが動かし、芸術もAIが作る、だから人間はどうでもいい、他人の気持ちは考えないのがAI時代の勝ち組うおおおお!」みたいなニセモノの煽りに飽きた人が、代わりにホンモノを手に取ってくれたら嬉しい。
参考記事:
(なお村上さん本人は、ビールはいまも好きみたいだ。ヘッダーは、コラボ商品を小説と一緒に楽しむ読者のルポより)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年5月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。