戦後80年の今年4月、特使として米国との交渉に臨む赤沢大臣が、トランプ大統領との対面に感動して「格下も格下」と自称し、MAGAキャップ姿の写真も撮られて、物議をかもす騒ぎがあった。
「謙遜するのは美徳」も、「だからって公に言うな」も一理あるが、しかし関税戦争で日米関係の危機とか言われても、結局この程度ですむわけだから、やっぱり平和はいいなぁと思ってしまう。
いまから80年前、マジモンの日米戦争の後は、もちろんそうじゃなかった。当時を象徴する、「奇跡の一枚」の写真を見てほしい。
敗戦翌月の1945年9月27日に撮られ、
2日後の全国紙に掲載された。
背景を検証したハフポストの記事より
私たちは平和ぼけという以上に、戦後ぼけ・歴史ぼけしてるから、「あぁ有名なやつですね」くらいにしか思わない。つまりリアルタイムではどう感じたかを、いま思い出すのはむずかしい。
じゃあ、体験者に聞いてみよう。12歳でこの写真に出会い、生涯のトラウマになった少年は、34歳になって出した本でも、恨み深そうにこう書く。
われわれにとって父性原理の中核をかたちづくっていた君主は、……「哀願する大人」に変貌した。その人は「父」の上に在る「父」として出現した背の高い異邦人の傍らに立って一語も発していなかった
(中 略)
われわれはどこかに「ウソ」を感じながらこの新しい異邦人である「父」の強制する世界像をうけいれ、どこかにかすかな痛みを覚えながら「母」を、つまりわれわれが馴れ親しんで来た生活の価値を否定した。
われわれがこのような「裏切り」をおかしていることは、どんな心理的操作によっても消えはしない。
江藤淳『成熟と喪失』講談社文芸文庫、176頁
(単行本は1967年)
段落を改変し、強調を付与
敗けたならそんなもんだろ、って言えばそうだけど、最初に日本人が見たときは、そこまで傷を残す一枚だったわけだ。不幸にも、いま戦争していて敗けそうな国があるから、比べるとわかる。
くつろいで体勢を崩す長身のプーチンの隣に、直立不動の正装で立つゼレンスキーの写真が世界に報じられたら、ウクライナの国民は血涙やるかたない心地になるだろう。まして、昭和天皇はTVのコメディアンじゃなかったし、戦時中にSNSもやってないし、日本の庶民は玉音放送まで、声すら聞いたことのない君主だった。
前回の記事では、戦後の日本がいかに「母性社会」と呼ばれてきたかの輪郭を見た。その原点に、うちの国はもう強い父親像とかムリっす、と思い知らされた敗戦の体験があったのは、まちがいなく事実である。
とはいえ、われわれは生きないといけない。なんかもう「この人が立派な大人!」みたいなお手本っていないよねと感じても、時が来ればぼくらはみんな成人して、オトナであれと迫られる。
戦後の80年間とは、そうした今日の世界の困難を、先取りする過程でもあった。そのなかでいちばん深く考え抜いたふたりの歩みを描く、15日に発売の拙著『江藤淳と加藤典洋』から、いよいよ序文の最後を公開したい。
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3 批評は行動する
はたして、それはほんとうに「母性社会」なのか。父性が弱いままでは変えようがない、として、いたずらな男性性の称揚に走ったり、あるいは端から諦めたりするほかに、術はないのか。
こうした問いは、サイエンスやエビデンスにはなじまない。
たとえば「母性はそこまで〝寛容〟だろうか?」として、家族社会学や動物行動学からデータを持ち出すことはできる。あるいは父性・母性といった性による差異自体が、実は有意な形では存在しないと、統計的に検証することもできるかもしれない。
しかしそれは、なぜかそうした秩序を現に、私たちが「母」の名で呼んできた歴史を消しはしない。いかにしてそんな事態が生じたかの説明は、客観視された数量ではなく、当事者自身の感性に触れることからしか出てこない。
だとすれば、ことは文学の仕事になる。
1967年、副題を「〝母〟の崩壊」と銘打って、文芸評論の主著を世に問うた批評家がいた。その人は尊皇家で、敗戦により現人神の地位から零落しても、人間として生き抜こうとする天皇の姿に、力弱き父の最後のモラルを見ていたらしい。
一方で82年、彼に挑もうとする、若き別の批評家は書いた。むしろ占領軍の上陸後、その天皇も含めて、日本人はみな母になってしまったのではないか。現にアメリカから来た識者は、男と女の結婚になぞらえて戦後の日米関係を見ており、「マッカーサーと天皇とが並んで立つ一九四五年九月の名高い写真」も、挙式の記念写真として扱われているのだぞと。
このふたり、つまり江藤淳と加藤典洋は、やがて顔をあわせて一度きりの対決をし、別れる。そこで江藤は、苛立ちを感じさせつつも、同じ道を後から来たものにこう助言する。
あなたはさっきからなかなかいいことを言っていますよ。……江藤淳は国じゃなくて言葉を信じているんだと、国は男じゃなくて女だと。しかし、それもまた型じゃありませんか。君、言葉があり、国があるんです。国は女でありかつ男なんです。そういうふうには一方的に割り切れないものなんですよ。
『加藤典洋の発言1』49頁
(初出『文藝』1985年1月号)
枚数の限られる原稿を頼まれた際には、叙述の便宜のため型どおりに割り切るのもいい、「若いときは必ずそういうことをやります」。しかし内心では、つねに「国であり言葉であり、男であり女であり、というようなものを信じていないとだめなんですよ」とも、添えている。それは懇切な研究指導を思わせる。
対する加藤の答えは、ぶっきらぼうだ。――「そのうえで言ってるつもりですけどね」。こちらはむしろ、今日ならX(旧ツイッター)で書き捨てるリプライに近い。
だけど加藤は、後になってずいぶん、このときの江藤への態度を反省するところがあったらしい。そうした逡巡の痕跡は、彼が遺した多くの著作の、節々や行間に眠っている。
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2025年は「戦後80年」であり、戦争の際の元号がずっと続いたなら「昭和100年」だとも言われる。だけど、そんなものを意識して生きる日本人は、いまとても少ない。
かつて母ないし女性に喩えられた、流れた過去をただ忘却し、あるいは祈ることで赦すばかりの「歴史のない」この国の構造は、いよいよ強固になってゆくように見える。ぼく自身がもう、それに逆らってもしかたないという気さえしている。
だけど、もしどこにも出口のない場所にいるのだとしても、いっしょに彷徨ってくれる人が隣にいるだけで、毎日を生きていけることがある。そのことをぼくはほぼ3年近く、文章が書けなくなる精神の病気をしたときに学んだ。
本書はある意味で、「江藤淳と加藤典洋」を扱った研究だ。ぼくなりに、このふたりについて初めて言われることも書いたし、出典の表記も丁寧につけた。その点では、戦後史を扱う歴史学の学術書と並べても、引けはとらないつもりでいる。
だけどほんとうにめざしたのは、ちょっと違うことだ。
「江藤淳と加藤典洋」といっしょに歩くような気持ちで、敗戦から現在までの80年間をつなぐ道のりに、もういちど足跡をつけてみたい。そのなかで戦後からの「出口」が見つかるかは、読者のひとりひとりが判断してくれていい。
読んだ後に、戦後史っていいね、もっと知りたい、と思う人がいたら嬉しい。でも逆に、うんわかった、もう俺は過去を云々することにさよならするよ、という感想もあっていい。
戦後という時空をふたたび訪れて、いっしょにいることの味わいが伝われば、そこから後になにを考えるかは、その人に委ねたい。
今世紀のはじめに連載された文学講義で、加藤は作者に寄り添いながら小説を読み解く営みを、登山に喩えた。山行のようにテクストに分け入りながら、「ここを押さえると、この作品の面白さ、よさ、新しさが、一望できる、もっと楽しく読める、そういうビュー・ポイントを指し示してみたい」。
本書はいわば、同じ手法で、歴史を登る試みである。
熟練した最良の登山ガイドふたりと、そのはるか後ろを、ただしけっして前を歩く人を侮らずについてゆく、不器用な荷物持ちは準備した。
同じパーティーに加わって、次からもページをめくってくれる人には、戦後日本という山並みが瞼の裏に浮かぶとともに、ふだん「いま」だけを見て生きるのとは違った感覚が、身体のなかを走り抜ける体験を、約束できると思っている。
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まもなく書店に並ぶ書籍の目次全体は、こちらで見れる。ぜひ、手に取るのを楽しみにしてくれるなら、とても嬉しい。
参考記事:
(ヘッダーは、引用した『文藝』1985年1月号より。右から江藤、加藤、鼎談者の竹田青嗣)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年5月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。