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日本人の多くは、トランプ大統領の行動の本質――すなわち「経済・貿易(関税)」と「安全保障(防衛費)」を同時に交渉のテーブルに乗せた戦略的意図――を正確に理解していない。これらは本来、明確に切り分けて議論されるべき分野である。しかし、現実には、日本が過去数十年にわたり防衛費をGDP比1%に抑えてきたことへの苛立ちが、アメリカ側には蓄積していた。
岸田元総理による「2%への引き上げ」表明は、そうした米国の不満に対し、“万が一”のトランプ再登場を見越した「先手」だったと言える。だが、それは足踏みやデモ隊登場を伴う国会審議を経ず、バイデン政権に対して閣議決定だけで「約束」された。しかも、その財源は現在も明確に確保されておらず、国内経済の実情を考えると実現性すら危うい。
さらに厳しい現実がある。NATO諸国はすでに「防衛費5%論」へと議論を進め、トランプ時代以降、米国の安全保障に対する信頼が揺らいだことで、フランスが主導する形で欧州独自の核抑止力体制の構築が本格化している。米国の庇護が永続するという前提は、すでに崩れつつあるのだ。
実はこの警告は、トランプ以前から――過去20年以上にわたって――米国の政軍関係者が繰り返し発していた。「日本の防衛は日本が主体となるべきだ」と。だが、日本の多くの政策決定層もメディアも、いまだにそのメッセージの核心を理解できていない。いまになってようやく「3%」や「兵器購入」を議論し始めたかと思えば、論点は「古い兵器を高く買わされるの不安」「思いやり予算の枠内でどうするか」という表層的な話にとどまっている。
重要なのは、トランプが正しいか否かではない。自己中心、米国第一主義は簡単に批判できる要素が多々ある。だが本質は、彼が表出させた不満や要求は、アメリカがトランプ登場以前、20年くらいにわたって蓄積してきた構造的な不満の爆発にすぎないという事実だ。そしてその根源を理解せずに対応すれば、経済と防衛という別軸の問題が、一つのテーブルで“取引材料”にされる危険性はさらに高まる。
現在の国際情勢を鑑みれば、日米安保条約が存在しているというだけで、米軍が台湾有事や尖閣侵攻の際に確実に日本の防衛に動くという保証はもはやない。アメリカ国内では「日本は基地提供でよいと思っている。米国有事では動かない。軍事同盟なのに許せないことだ」「日本人自身が自国を守る気があまりない。そんな日本は守るに値するか」という声すらかなり前から出始めている。
日本は「平和ボケ」から目を覚まさねばならない。安倍政権や岸田政権など歴代自民党政権は、少なくともこの厳しい現実に向き合う姿勢は見せていた。しかし、相次ぐ「裏金疑惑」や「お米問題」など政治の信頼を損なう事件によって、次期総選挙では政権が大きく揺らぐ可能性がある。
いまや日本の安全保障は、戦後最大級の転換点を迎えている。その本質は「誰かに守られる国家」から「自ら守る国家」への移行であり、その選択を迫られているのは、まさに私たち国民自身である。
フジテレビの「日曜報道」において、フランスの歴史学者エマニュエル・トッド氏が日本の核戦略に言及しようとした場面で、突如として話が遮られ、番組が終了するという出来事があった。やや以前の放送ではあるが、この対応は報道機関としての本来の責務を放棄したものであり、多くの視聴者に違和感を与えたはずだ。
この一件は、日本において「核を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則をさらに超えて、「言わせない、考えさせない、議論もさせない」という空気が、今も昔も広がっていることの象徴である。特に主要報道機関がこうした姿勢を取ることは、言論の自由を土台とする民主主義国家において看過できない。
誤解のないように言えば、私は現時点で日本が独自に核兵器を保有することには反対の立場を取っている。しかし、非核三原則のうち「持ち込ませない」という原則については、国際情勢の変化を踏まえた再考が必要だと考えている。1950~60年代には、米艦船が核兵器を搭載したまま横須賀などに寄港していた事実があり、米海軍のラロック退役少将もこれを認めている(画像)。彼は筆者に直接認めただけでなく、同じ内容を米議会でも証言した。
「ラロック少将と核持ち込み」でググれば、NHK番組やウイキぺデイアなど、詳しい情報がすぐに出て来る。

1950〜60年代日本への核持ち込みを証言したラロック海軍少将
筆者提供
米国政府は核兵器の所在について明言しない政策を取っており、日本国内に存在する可能性があるだけで、抑止力として機能しうる。こうした現実を踏まえれば、「持ち込ませない」原則の見直しは憲法違反ではなく、むしろ戦争を防ぐための現実的な対応となり得る。
何より重要なのは、日本が主権国家として、自国の安全保障について国民自らが主体的に議論し、決定することである。その結果が2%、3%などだ。最初に米国に言われて「数字ありき」では絶対にない。日本人が他人事で無関心、自ら防衛費増強を議論しないので、米側が強く言っているだけだ。
仮に最終的に「核は持たない」との結論に至ったとしても、それは尊重されるべき民主的意思決定の成果であり、国際社会に対しても説得力を持つ。しかし、その出発点となるべき「議論」すら封じられている現在の状況は、極めて深刻である。
議論そのものを忌避する姿勢こそ、最も有害であり、日本の国益を大きく損なうものだ。核保有の是非以前に、国家戦略について自由に思考し対話することこそが、平和と安全保障の基盤となる。核兵器の保有を最終的に否定するにしても、その議論が行われている事実自体が外交上のカードとなり、抑止力にもなる。
私はヒロシマの被爆二世として、また約40年にわたり米国を含む世界各国で核問題に関する現地取材を行ってきたジャーナリストとして、日本国内に根強い核への拒否感には深く共感している。同時に、被爆の実態を世界に伝え、再び核が使用される事態を防ぐ役割が日本にはある。唯一の被爆国として、倫理的責任を放棄すべきではないと強く思う。
しかしその一方で、日本の多くの国民が知らない現実もある。たとえば、オバマ政権が核抑止力の縮小を模索した際、日本政府は「米国の核抑止力が弱まれば、日本の安全保障が危うくなる」として、米議会や政府に対して強いロビー活動を行った。これは国際社会では広く知られた事実だが、日本では報じられることは少なく、政府も積極的に説明してこなかった。
戦後、日本の平和が維持されてきた要因は複数あるが、決して憲法9条だけではない。9条には象徴的な意義はあるが、それが現実の他国による日本への侵略を防ぐ力にはならない。むしろ、9条の存在が防衛体制の構築を阻み、米国に「信頼されにくい同盟国」と見なされる要因になり得る。その結果、「攻撃しやすい国」として誤認されるリスクすらある。
日本の平和が保たれてきた根本的な理由は、日米安全保障体制と米軍基地の存在、そして米国の核の傘による抑止力であることは、国際社会の共通認識だ。
しかし、この「核の傘」も決して万全ではない。日本政府は、米国による核使用の判断プロセスに一切関与できず、情報も十分に共有されていない。実質的には、米国の裁量にすべてを委ねる構造的な脆弱性がある。
この現実を直視し、国民一人ひとりが、多様な価値観に富んだより多くの情報を持ち、冷静かつ自由に議論を行うことこそが、主権国家の責任であり、未来世代への義務でもある。
現在、世界は不可逆的に多極化へと進んでいる。米国は大戦と冷戦後に築いた覇権を失い、国力も低下しつつある。内向きな姿勢を強め、「アメリカ第一主義」を掲げるトランプ氏の再登場により、同盟国に対して「自立」を求める圧力も増している。
だからこそ、日本は今こそ現実と向き合い、事実を学び、考え、行動すべき時にある。安全保障は他国任せにできない。我々自身の手で設計し、守る体制を築くべきであり、その第一歩は、タブーを恐れず自由に語り合うことにほかならない。






