黒坂岳央です。
「日本は給料が安い!仕事のやりがいでごまかさず、ストレートに給与を上げてくれればやる気が出るのに」
こうした意見をSNSでよく見かけ、多くの賛同の声を集めている。日本の実質賃金が長らく停滞し、諸外国との比較でその水準に不満を感じる者が多いのは、筆者も深く共感する部分である。
確かに、昇給を告げられたり、待遇の良い転職先に恵まれれば、「短期的」にやる気は急騰するだろう。しかし、結論からいうと、この考え方だけでは持続的なモチベーションを得ることは難しいと断言する。
なぜなら、全ての人間には「慣れ」という強力な機能性があるからだ。いかなる報酬による興奮もあっという間に「当たり前」になり、1年後にはありがたみなど感じなくなるケースがほとんどである。そうでない者の方が少数派と言える。つまり高給は人を集める「起点」になっても、「維持」にはなりづらいという特性を持つ。
もちろん、我が国の給与の安さを是正する必要はある。しかし、それは個別の経済的・社会的な課題として議論されるべきであり、社員の「やる気」という非常に複雑なテーマと直接的に結びつけるのは一面的な見方だと考える。
Googleのような世界トップクラスのリーディングカンパニーで高報酬企業ですら、過度な金銭的インセンティブ「だけ」では優秀な人材のリクルーティングはできない。競合他社を意識し、社内環境を整えたり、評価制度、魅力的なプロジェクトなど創意工夫をしてやる気を引き出し、社員を留めることに努力している。
本稿は、「給与さえ上げればやる気が出る」という誤解を解き放ち、ではどうすればやる気が出るのか?という人間心理を科学することを目的に書かれた。
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高給でもモチベーションは持続しない理由
給与が上がったり、高いボーナスが支給されれば、確かに一時的な興奮を生み出す。筆者自身、サラリーマンの頃に人事評価をよくつけてもらい、ボーナスが想定以上に多かったことに浮かれて帰り道に妻に電話をしてしまったことがあるので、この気持ちはよく理解できる。
だが、その感情は長くは続かない。人間には「快楽順応」という心理的なメカニズムがある。どんなに大きな報酬による興奮も時間とともに慣れてしまい、何も感じなくなっていくのだ。そしてやがて、上げてもらった給与を「当たり前」と感じるようになり、昇給直後は張り切っていた者でもまた手を抜いて意欲的に取り組まない選択をするケースが出てくる。
ノーベル経済学賞受賞者である心理学者のダニエル・カーネマンらの研究では、幸福度と所得の相関は、一定の収入レベルを超えると上昇が鈍化することが示唆されており、これはまさに快楽順応の一例と言えるだろう。
人間はエネルギーを節約しようとする傾向があるため、昇給やボーナスくらいで恒久的にその習性を撃退できるほど甘くはないのだ。
仕事のやる気スイッチ
それではどうすれば仕事の行動意欲は湧いてくるのだろうか?実はその答えは極めて複合的かつ人によって強く反応する部分とそうでない部分に分かれる。
そのため、すべての人に該当する要素を1つに絞ることはそもそもできないテーマであり、ヒット率を高めるために多く列挙することになる点をご容赦いただきたいが、ここでは代表的な5つの「やる気スイッチ」を紹介する。
1.強制力
世の中には自発的に行動する者、まったくやる気が出ない者、そして中間としてある程度強制力があれば行動できる者に3分類できる。
一番最後の「強制力があれば頑張れる」は最も多くの者に該当する。オフィス勤務で周囲の目があり、堂々と自由にお菓子を食べたり寝転んで動画を見たり出来ない空間なら、やる気が無くても頑張れるのだ。そして人間には「作業興奮」という心理があり、強制力のある環境で行動する内に徐々にエンジンが温まっていく。
リモートワークからオフィス勤務回帰をした理由はコミュニケーションが非効率というのはあくまで一部の建前である。その真意は、強制力が働かないことでやる気を出せない社員の統制が取れなくなり、組織全体のパフォーマンスの低下が主要因であろう。
その証拠に、GoogleやAmazonといったデータドリブンな評価を行うリーディングカンパニーは、「オフィスでの共同作業の方が生産性が高いと判断」し、リモートワーク解除で退職者が出てもなお、次々とオフィス勤務回帰を決断している。これは、強制力が生産性を高めるという強い証拠と言えるだろう。
2.努力が認められる環境
頑張りが正当に認められ、社内評価が高まる職場はやる気が出やすいものだ。筆者は様々な職場で働いたが、流れ作業で延々単純作業を繰り返すだけの仕事はあっという間にやめてしまった。
一方で「ありがとう」「助かるよ」と感謝されたり、努力がしっかり認められる職場では精力的に楽しく働いたという感覚がある。これはハーズバーグの二要因理論でいう「動機付け要因」にあたり、内発的なモチベーションに深く影響する。
3.仕事の資産性
仕事内容が労働市場でスキルや経験として価値を帯びるものなら、人は必死に頑張れる。何より「自分自身にリターンがある」と考えられるからだ。
たとえば同じ専門職でも、仕事で英語を使う職場は価値が高いだろう。仮にその職場で少しくらい給与が安くても、その次の転職で「専門性×英語」で大きく跳ねることが想定できるからだ。
実際、dodaやビズリーチといった転職サービス企業の調査では、ビジネスレベルの英語スキルを持つ人材は、そうでない人材に比べて年収が10%~20%以上高くなる傾向が報告されている。自分自身がこの戦略で転職時に年収200万円アップした実績があるので肌感覚でそう思うのだ。
4.ベンチマークの存在
人は最も人から影響を受けるものである。「この人のようになりたい」と目標になるような人材がいるなら、それは強力な引力になり得る。
自分自身、非常に厳しい上司の元で毎日叱られながら働いた経験があったが、彼のビジネスマインドやスキルは非常にハイレベルだったので、離職せずに粘り強く取り組んだ。今でもそれらは資産として自分の中に残っているし、一緒に働けたことは自分にとっては宝である。
5.本人の気質・向上心
これは職場環境とは関係がない、個人の内発的な要素であるが、本人が元から持っている気質や向上心も重要である。
「同じ給与なら業務を最小限に留め、会社の福利厚生を最大限に活用することに価値を見出す」という者と、「同じ働くなら、ビジネスマンとしても人としても大きく成長したい」と思える者とでは仕事への取り組み方は全く異なる。
正直、知的好奇心や成長意欲、体力や前向きな性格はある程度の傾向は生まれつきの素養に見られるものの、適切な環境や経験を通じて育まれる余地も大きいファクターである。
職場がそうしたやる気や向上心を引き出しやすい、もしくは挫く要素を排除しているなら、パフォーマンスは最大化されるだろう。
「給料が安いからやる気が出ない」が拡散する理由
さて、以上を踏まえて給与以上にやる気スイッチは数多く存在し、さらに人によって刺激されるポイントは多様であることを論じてきた。それにも関わらず、いつの時代でも「給与が一番やる気で大事」という話が拡散されるのだろうか?
その理由はお金がシンプルで説明しやすいため、多くの者が自身の複雑な感情や状況をそこに集約する「言語化の難しさ」にあると考える。これは、そのように感じる者を否定しているわけではなく、要するに、言語化し、感覚値で説明する難易度の問題である。
人間関係、組織文化、裁量の欠如といった複数のファクターを個別に言語化し、自分に応じた重み付けをするのは、かなり高度な作業となる。そもそも、この要素を認識せず、やる気が出たり下がったりを繰り返しながら働く者が多いのではないだろうか。つまり、自分で自分のやる気の出どころを知らないため、具体的に話に出てこないということにすぎない。
その結果、数字で明確、かつシンプルに取り上げやすい給料に矛先が向くというわけだ。
◇
給与は短期的な「興奮剤」にすぎない。持続的な「やる気」は、個人の内なる欲求と、それを引き出す環境によって育まれる。企業は給与以外の多様なモチベーション要因を理解し、個人は自身の「やる気スイッチ」を自覚することが、真のパフォーマンス向上に繋がる。
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