国民民主党が公約している最低保障年金には、意外に長い歴史がある。1999年の自自公連立のとき、自由党の小沢一郎氏が、基礎年金を税方式化する案を自民党との連立の条件とした。連合も基礎年金を全額税方式を提案した。小渕内閣は2000年に、基礎年金の国庫負担を1/3から1/2とする年金法改正をおこなった。
民主党政権の公約の目玉だった「最低保障年金」
自由党は2003年に民主党と合併したが、このとき民主党は小沢氏の主張を取り入れ、マニフェストに次のように書いた。
- 基礎年金の財源には消費税をあて、新しい年金制度を創設します。
- 基礎年金と所得比例部分からなる2階建て年金制度を4年以内に確立します。
- 消費税を財源とすることで負担を公平化し、 持続可能な社会保障をつくりあげます。
2009年7月、民主党の鳩山由紀夫代表はマニフェストを発表し、「年金制度を一元化し、月額7万円の最低保障年金を実現します」と宣言した。年金改革を担当したのは枝野幸男氏で、7万円という数字は 「消えた年金」を追及して「ミスター年金」と呼ばれた長妻昭氏が主張して入れたが、算定根拠は不明だった。
この年の総選挙で民主党は308議席と圧勝し、 衆参両院で多数派になった。 長妻氏は厚労相になったが年金改革には手をつけず、それを担当した国家戦略室の古川元久室長は7万円という数字を削除し、財源は明記しなかった。
焦点は年金改革から増税に移った
鳩山内閣は9ヶ月で倒れ、 菅直人首相は消費税の増税を示唆したため、民主党は2010年の参議院選挙で過半数を割り、衆参のねじれが始まった。財源問題で追い詰められた菅首相は、経済財政政策担当相に与謝野馨氏を起用したが、小沢氏が消費増税に反対するなど党内が混乱した。
2011年には東日本大震災が起こり、その対応をめぐる失敗で菅首相は退陣し、野田内閣になった。年金改革は古川氏が担当した。翌年の「大綱」には最低保障年金が入っていたが、これに自民党と公明党は反対し、3党合意はできなかった。それは1960年代以来の「年金は社会保険」という原則を転換し、増税への道を開くものだという理由だった。
民主党の中でも、消費税の増税については異論があった。マニフェストでは消費税にふれていなかったが、鳩山首相が国会答弁で「4年間は消費税を上げない」と答弁しており、党内でも小沢派が消費税の増税に反対していた。
党内でもめたあげく、消費税を5%増税し、そのうち4%を基礎年金の国庫負担や財政赤字の穴埋めにあてることになった。これでは財源は足りなかったが、党税調で「消費税率は2014年4月に8%、15年10月に10%にする」という案が決まった。年金改革の中身が決まらないまま、増税だけが決まったのだ。
増税は決まったが、最低保障年金は消えた
一体改革関連法案は2012年3月に提出されたが、そこでは年金改革は「政府はこの法律の施行後3年を目処として所要の措置を講ずるものとする」と書かれ、2015年以降に先送りされた。これをもとに民主・自民・公明の3党合意が結ばれて法案が成立し、小沢派議員50人が離党した。
この年の暮れの総選挙で民主党は敗北し、年金改革は安倍政権に引き継がれたが、社会保障制度改革国民会議は最低保障年金の棚上げを決めた。こうして2003年から民主党が提案してきた最低保障年金は、法案にも入らないまま忘れられた。
その原因は増税をめぐる党内抗争と財源不足だったが、もう一つの隠れた原因は年金官僚の妨害だった。1階部分をすべて税にすると財務省の所管になり、厚労省の最大の利権である社会保険料の一角が失われる。年金官僚はあくまでも社会保険料という牙城を守りたかったのだ。
今や一般会計113兆円を超える138兆円になった社会保障は、政治的利害のからむ「暗黒大陸」である。その実態はあまりにも複雑で、全貌は誰も知らない。それを隠れ蓑にして年金官僚は既得権を守り、世代間格差を無視し、改革を抹殺してきたのだ。