綱渡りが続くアメリカの財政とトランプ政権の命運

イーロン・マスク氏とトランプ大統領の罵倒合戦が、大きな話題だ。週刊誌ネタのゴシップ記事のように扱われているが、事の発端は、米下院を通過した「One Big Beautiful Bill Act」(OBBBA)(一つの大きな美しい法案)」の評価である。

OBBBAは、米議会予算局(CBO)の試算で、財政赤字を今後10年間で2兆4200億ドル膨らませる見込みだという。一年あたり2,420億ドルの計算になる。米国の現在の債務高は37兆ドルであることを考えると、これは決定的な空前の大減税とまでは言えない。

千ページにわたるとされるOBBBAでは、労働者向けの的を絞った減税策に加えて、各種の歳出削減策も盛り込まれている。その一例が、マスク氏へのトランプ大統領の攻撃で注目されることになった、再生可能エネルギーへの税制優遇措置の撤廃である。

財政赤字の削減をするのであれば、増税をするのが簡明な政策だろう。だが経済成長が止まってしまっては意味をなさないことは、言うまでもない。別途、私が『The Letter』で書いたように、OBBBAの評価は、それほど簡単ではないように思われる。

マスクvsトランプ決裂が示す本当の重大争点
 イーロン・マスク氏とトランプ大統領の間の罵倒合戦が話題だ。メディアはゴシップ記事のように扱っている。確かに、人間的な確執の感情部分の要素も相当にあるのだろう。ただ、論争が、「One Big Beautiful Bill Act」(OBBBA)(一つの大きな美しい法案)から始まっていることも、見失ってはならない。端的に...

マスク氏が政権を去ること自体は、鳴り物入りで異例の権限を持った大物コンサルタントが契約を終えた後、政府との関与を止めることになったということ以上には、実際にはそれほど大きな意味はない。ただ、マスク氏の態度は、市場の動きにも一定の心理的影響は与えるのかもしれない。米国国債市場に、暴落の危機が近づいているという指摘もある。その点から見ると、マスク氏の劇的なトランプ政権の経済政策批判は、影響があるのかもしれない。

より直近で、最も本質的な問題は、連邦政府債務上限額の問題だ。現在のアメリカ連邦政府の法定債務上限は、36.1兆ドルである。これは、2023年6月に成立した「財政責任法(Fiscal Responsibility Act of 2023)」により、2025年1月1日まで債務上限が一時的に停止された後、累積された債務に基づいて再設定されたものである。これに対して、2025年3月時点で、アメリカの連邦債務総額は、約36.56兆ドルに達したという。

現在の債務上限のままでは、2025年8月頃に政府の資金が枯渇する、と財務省は警告している。債務上限を引き上げなければ、連邦政府の活動が停止するだけでなく、債務不履行に陥る可能性がある。そこで、7月中旬までに議会が債務上限の引き上げまたは再度の停止措置を講じなければならない状況にある。

仮にOBBBAが経済成長を促進して税収も増やすというトランプ大統領のバラ色の青写真が実現する場合でも、それが7月までに実現することはない。OBBBAは、最も楽観的な見通しの場合でも、当面は債務上限の引き上げでしのぐことが大前提になる。

現在議論されている債務上限の引き上げ幅は、4兆ドルだ、これにより、債務上限は最大で40.1兆ドルに達する可能性が生まれることになる。大きな山になるだろう。

20世紀アメリカの対立図式では、民主党が労働寄りの政策を主張し、共和党は富裕層寄りの主張をすることになっていた。だがトランプ政権は、白人労働者階級を一つの強力な支持基盤としており、実際に、OBBBAにもチップの非課税化などの労働者向けの施策が盛り込まれている。現実に、民主党の支持基盤が北部州の高所得者層であり、共和党が南部の低所得者層を支持基盤にしている構図は、トランプ政権でいっそう劇的に鮮明になっている。OBBBAをめぐる対立図式に、20世紀の左右のイデオロギー対立をあてはめすぎると、的外れになるだろう。

OBBBAの争点は、経済成長を維持したまま、財政赤字を改善する方法はあるのか、という点に尽きる。

そして、現在のアメリカ政治は、トランプ大統領の支持者とその批判者の対立をめぐって展開していることにも、注意が必要だ。

OBBBAが成功すれば、トランプ政権の支持率は上昇し、トランプ系の政権が続いていく見込みが高まってくる。失敗すれば、大混乱だ。各論で議論をふっかけている諸勢力も、大局的な見取り図にそった対案を持っているわけではない。そもそも現状の危機的な財政赤字の状況を見れば、そんな画期的な解決策などあるはずがない。アメリカの政治は、さらにいっそう混沌としたものになっていくだろう。

率直に言って、OBBBAが成功するかどうか、私には、わからない。懐疑的な経済学者も多いと思われるが、それらの経済学者が特効薬的な代替案を持っているわけでもない。

ただし、失敗に終わったとき、アメリカがトランプ大統領以外の指導者を据えて、別の方法で諸問題を解決して進んでいく見込みがあるわけでもない。トランプ大統領の政策にリスクがあるが、別の指導者になればリスクがなくなるわけでもない。

状況が厳しく、切迫しているのである。SNS上の喧嘩だけに注意を奪われている場合ではない。最悪のシナリオも可能性として視野に入れつつ、注意深く事態の進展を見守っていく必要がある。

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