発売から約1か月で、『江藤淳と加藤典洋』の増刷が決まった。江藤や加藤の名前を知らない人も増えたいま、まさにみなさんに支えていただいての快挙で、改めてありがとうございます。
このnoteで初めて告知を出したときから、ぼくは一貫して、社会の分断を乗り越えるための本だと書いてきた。江藤と加藤のどちらも、80年前の敗戦の受けとめ方をめぐり、(たとえば)左右のあいだで「人格分裂」のようになった戦後の日本を憂い、その克服を模索したからだ。
そんな江藤と加藤なら、急変する今日の日米関係になにを言っただろうか。浜崎洋介さんと議論するYouTubeの前編が、6/17から公開されている。
加藤典洋は1995年の「敗戦後論」で、護憲派と改憲派がどちらも「われわれ日本人」を代表できず、いがみ合う様子を、ジキル博士とハイド氏の二重人格に喩えた。しかし30年後のいまでは、むしろ米国こそが①ラストベルト派と、②シリコンバレー派と、③ポリティカルコレクトネス派の「三重人格」状態になっている。
平成のあいだ中、日本が二重人格を統合しようと苦しんでいたら、「この人をモデルについていけば大丈夫」と頼ってきたアメリカまで、三重人格になってしまった。ぶっちゃけ医者の方が重病だったと後でわかるような話で、大変なことである。
どうしたらいいのだろう。仕事で読んでいた、荒木優太さんの『無責任の新体系』(2019年)に、滋味のある手がかりを見つけた。
文献横断的な哲学エッセイである同書は、「敗戦後論」をめぐる論争からアーレント(ヘッダー右)の読み方を問いなおし、欠点を埋めるヒントをロールズ(左)に求める。その読解は、教科書的な要約とは異なる分、いまアクチュアルだ。
人生は具体的なものだ。言い換えれば、個々別々であり、それぞれが容易に一般化できない経験の厚みをそなえている。そういった特異な人生の群れに対して普遍的に妥当しうる正義の原理を構想するには、全知の神の化身のようなモデルに頼るのではなく、非力ゆえに傾き偏る多様な人生の物語をテストする必要がある。
(中 略)
アレント的注視者はパート的なものを否定するために全体を見渡す神の視線に限りなく近くなる。が、ロールズの当事者はパート的なものの集合体、いわば部分の仮体験を繰り返すことで全体に接近する。
181頁(強調は引用者)
ロールズの思想として知られる「無知のヴェール」は、被れば誰もがいちばん中立で平等な正解を見つけられる、魔法のブラックボックスのようにイメージされがちだ。「自分は何者か?」についていったん無知になることで、たとえ何者であっても、そこそこ暮らせる社会の構想に同意できる。
俺は男だ、白人だ、プロテスタントだ、富裕層だ……みたいな個性を削ぎ落し、完全にニュートラルな視点に立ってみれば、もし自分が「貧困層でムスリムのアラブ系女性」だったとしても、生きていける社会がやっぱいいなと思うはずでしょ?――というのが、通説的なイメージだ。
しかし荒木さんは、それはむしろ(悪い意味で)アーレントの立場であり、ロールズが被せる「無知のヴェール」の内部では個性のリセットではなくて、色んな仮想の人生のシミュレーションが起きていると考える。
それはちょうど、世の中がどんな場所かを十分に知る前に、手あたり次第にフィクション作品を楽しむことで人生のモデルを見つけてゆく体験に近い。荒木さんの本業が「江藤と加藤」と同じく、文芸評論であるがゆえの提言だと思う。
こうして見たとき、米国の「三重人格」では①のラストベルト派だけが、そうしたセンスを持っていることに気づく。代表するJ.D.ヴァンスがまだ無名の頃から、自伝文学をベストセラーにして政財界に足がかりを作ったのは、偶然ではない。
③のポリコレ派には人文学者も多いが、彼らは政治的な「正解」が社会にあると確信しているので、小説の読み方にも多様性がなく、つまり実は文学的でない。②のシリコンバレー派は、「文系なんてムダ」論者の巣窟みたいなもので、データ化されない個々のユーザーの人生に関心はない。
荒木さんの本にも、近日はテクノ・リバタリアンと呼ばれる「功利的な全体主義」(統治功利主義)への批判があるが、哲学者の千葉雅也さんとも2021年の秋に、重なる議論をしたことがある。
千葉 多義性を扱うレトリックが軽んじられてファクトに座を譲ったように、いまは「言葉と意味とは一対一で対応すべきだ」という信仰が強すぎて、そこから「差別的でない新語にすべてを言い換えて世界を覆い尽くそう」とする発想が出てきた。自然科学的な規則志向やエビデンス主義が、人文学の内部にまで侵入してきました。
與那覇 陰謀論とエビデンス主義とは、一見すると正反対ですが、「世界が多義的なものであることを拒絶し、単一の原理のみに回収しようとする」志向では通底しているわけですね。リベラル派が大衆を抑圧する姿勢へと反転した謎を解くカギも、そこにありそうです。
『過剰可視化社会』156頁
イーロン・マスクですら最近ぱっとしないように、「国家の人格分裂」を治癒することが政治の任務になる時代には、正しい意味で文学ができる人こそがいちばん強い。そのことに無知な②や、むしろ人文学の「裏切者」である③をしっかり排斥することは、国力を回復する上で急務なのだ。
……というわけで、戦後で最強の「文芸評論家」であり、かつ日米関係を根底から問う批評家だった江藤淳と加藤典洋を、扱う拙著がもっと読まれると嬉しい。ぜひ今後とも応援のほど、何卒よろしくお願いします!
参考記事:1つめの6/25イベントもぜひ!
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年6月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。