『日本の名門高校 – あの伝統校から注目の新勢力まで –』(ワニブックス)の発刊を記念しての連続記事の7回目。
まず、本書の内容を動画にして三回に分けて公開している。ぜひ、ご覧いただきたい。
日本の名門高校トップ100!小中高は世界でもハイレベル!あの名門校から注目の新勢力まで、あなたの出身校は?
日本の名門高校トップ100!どんな基準で選んだか?〜地方の隠れた伝統校から躍進する首都圏進学校まで〜
日本の名門高校トップ100!医学部進学は人気ダウン傾向!中高一貫はどうなのか?
さて、今回から何度かに分けて、カリキュラムという視点から日本の中等教育の歩みを紹介したい。
江戸時代までは、ほとんどまともな学校が存在しなかった。平安時代には、大学寮などというものがあったことは、NHK大河ドラマ「光る君へ」でも紫式部の弟が学ぶ様子が描かれていた。
しかし、それすらなくなって、禅宗などの僧侶が大名や上級武士を家庭教師的に教育するだけになった。若いころに、寺に入って勉強していたという貴公子が多いのはそのせいだ。
江戸時代になっても同じようなものだった。幕末きっての名君といわれ、13代将軍家定の御台所となった篤姫の養父でもあった島津斉彬(文化6年、1809年生まれ)は、この時代の殿様として最高に恵まれた教育を受けた人物であった。
島津斉彬公像 鹿児島県観光サイトより
曾祖父である島津重豪、祖父の斉宣、父の斉興はいずれも好学で知られた大名だったし、それ以上に、母で鳥取池田家出身の弥姫(周子)は、嫁入り道具として漢籍を大量に持ち込んで薩摩藩士たちを驚かせたような女性だった。弥姫は息子である斉彬に対して教育ママぶりを発揮したし、斉彬もそれに良く応えた。
斉彬は5歳のころから読書・習字を開始し、11、2歳のころになると四書五経の素読を終えた。そして、17、8歳のころまでには二一史(史記から元史まで)という中国通史を習った。
武芸としては、高麗流馬術、日置流弓術、荻野流砲術、鏡知流槍術、柳生流と示現流剣術、狩野派絵画、和歌、点茶、囲碁、将棋、魚釣り、朝顔作りなどに励んだという。また、曾祖父重豪とともにシーボルトと会って見聞を広めたりした。
つまり、中国の古典を学ぶことにより、日常会話とはまったく違う漢文読み下し言葉を身につけ、あわせ倫理や処世術、それに歴史を学ぶことが「文」の主体であり、一方で武芸を一通り身につけたのである。
斉彬は頭脳明晰で優れた人物であったが、彼自身は特別に学問に傾斜したタイプではない。そういうことでは、むしろ、側室お由羅を母とし、鹿児島で育った弟・久光の方が、学者肌で勉強好きである。久光は昌平坂学問所で学んだ儒学者・上原尚賢を家庭教師に、漢学を学び、山崎闇斎の弟子である浅見絅斎が書いた中国の偉人たちの列伝『靖献遺言』を愛読し、「唐詩選」や「島津歴代歌」(島津歴代藩主の業績を詩に詠み込んだもの)や「いろは歌」(戦国時代の島津忠良が詠んだ家訓のようなもの)などを壁に貼って覚えたという。
江戸後期の殿様で出来がいい人たちはこんな形で育てられたのだが、上級武士の子弟は、これほど充実していなくても、よく似たタイプの教育を受けていたといえる。
だが、世の中にはそれほどたくさん優れた先生がいるわけでない。それに、一人で学ぶより切磋琢磨する方が能率も上がる。そこで、徐々に私塾のようなものが成立し、さらに、藩自身が経営する、藩校が生まれてきたのである。
それでは彼らほどできのよくないバカ殿たちはどうしたのかというと、ほとんど勉強しなかったのである。歴代の徳川将軍を見ても、国語・社会について大卒クラスの学力があったのは、5代将軍綱吉と15代将軍慶喜だけ、6代将軍家宣、10代将軍家治、11代将軍家斉、12代家慶、14大家茂がどうだったかというところだろう。
徳川綱吉 Wikipediaより
【目次】
はじめに 伝統の名門校から躍進する注目校まで
第1章 東京・神奈川の名門高校
第2章 関西の名門高校
第3章 中部の名門高校
第4章 東日本の名門高校
第5章 西日本の名門高校
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