スレブレ二ツァ虐殺30年目の「冷たい和平」:敗者しか存在しないボスニア紛争

第2次世界大戦後、欧州で起きた最大の民族戦争、バルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、ボスニアのセルビア軍が8000人以上のボシュニャク男性と少年を虐殺した通称「スレブレニツァ虐殺事件」が起きて今月11日で30年目だ。同虐殺に関与したボスニアのセルビア軍の当時の指導者、ラドヴァン・カラジッチと軍指導者ラトコ・ムラディッチ将軍ら数十人はオランダのハーグにある旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)で有罪判決を受けている(カラジッチとムラディッチの2人は終身刑、ラディスラフ・クルスティッチ将軍は懲役35年の刑を受けた)。

クロアチア系住民とボシュニャク系住民間を結ぶボスニアの「スタリ・モスト橋」(2005年11月、ボスニアのモスタル市で撮影)

ボスニア紛争では20万人の犠牲者、200万人の難民・避難民を出した。1995年、パリでデイトン和平協定が締結されて一応終戦を迎えた。ボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク系とクロアチア系両民族から構成された「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア系の「スルプスカ共和国」(RS)の2つの主体から構成された国家となった。

スレブレニツァ虐殺に対して、ICTYは2004年、そして3年後に国際司法裁判所(ICJ)がジェノサイドと認定したが、セルビアのアレクサンダル・ヴチッチ大統領はボスニア紛争の再解釈を要求する一方、ボスニア・ヘルツェゴビナのミロラド・ドディク大統領(スルプスカ共和国所属)は、ジェノサイドの否定が法律で禁じられているにもかかわらず、今日に至るまでジェノサイドを認めていない、といった具合だ。

オーストリア国際問題研究所(OIIP)のボスニア問題専門家、ヴェドラン・ジヒッチ氏はオーストリア国営放送(ORF)で、「スレブレニツァ虐殺は歴史的に事実として認知されているが、その過去の記憶に対してボスニアでは依然共有されていない」と述べている。同氏によると、ボスニアで過去の出来事に対する記憶の共有も可能だという声が政治レベルや市民社会レベルで聞かれたことがあったが、「最近は、その声は後退してきた」という。

国家の統合には歴史の共有が不可欠だ。その役割を担うのが学校では歴史教育だが、ボスニアでは、教科書も中央政府によって規制されておらず、各機関の責任となっている。そのため、クロアチア人、ボシュニャク人(ボスニア・ムスリム)、セルビア人の生徒は、ボスニア戦争だけでなく、スレブレニツァでの大量虐殺についても、それぞれ異なる物語を教えられている。

国際的な圧力を受けて、2003年に中央慰霊碑(The Srebrenica-Potocari Memorial Center)がスレブレニツァから数キロ離れたポトチャリに開設され、そこには約7,000人の犠牲者が埋葬されている。また、国連総会は、7月11日を「スレブレニツァ虐殺の国際追悼の日」とする決議を採択している。

デイトン和平協定は3民族間の紛争を停止させたが、民族間の和解の道は依然見えず、RSではデイトン和平協定から離脱する動きが出てきている。「ウィーン国際比較経済研究所」(WIIW)の上級エコノミスト、ウラジミール・グリゴロフ氏は、「ボスニアがうまくいかない最大の原因はデイトン和平協定だ」と断言、和平協定がその後の国の発展を妨げる最大の障害となっていると主張していた。

ウォルフガング・ペトリッチュ元ボスニア和平履行会議上級代表は2005年、当方とのインタビューで、「ボスニアでは冷たい和平が支配している。ボスニア紛争は内戦だった。外部の侵略を契機に始まり、勝利者と被占領者に分かれる戦争とは異なり、内戦には勝者はなく、敗者しか存在しない」と語り、「冷たい和平」の前途が厳しいことを示唆した。スレブレ二ツァ虐殺から30年の年月が経過したが、残念ながら民族間の「暖かい和平」はまだほど遠い。

スレブレニツァの虐殺 2007年に行われた465人のボシュニャク人の埋葬 Wikipediaより


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年7月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。