纒向遺跡の大型建物跡(2024年10月、筆者撮影)
纒向遺跡(奈良県桜井市)は魏志倭人伝に登場する女王・卑弥呼の都の有力候補地として有名です。僕は、纒向は4世紀のヤマト王権初期の王都だったとは思いますが、3世紀前半の卑弥呼の都だったということはありえないと考えています。僕のnoteではその11の根拠を示しましたが、ここではそのうちの7つを紹介します。
纒向は大陸や九州との交流の痕跡が希薄
纒向では、外交や交易の証拠となる楽浪(朝鮮半島北部)系土器・九州系土器の出土がほとんどありません。卑弥呼は九州から朝鮮半島を経て中国と交流していながら、纒向にはその痕跡が見られません。纒向は外交拠点としての実態がうかがえず、僕はもうそれだけで、卑弥呼の都の資格がないと思います。
大型建物は卑弥呼と相いれない
2009年に見つかった纒向の大型建物は、柱穴などから出雲大社の原形とされ、開放的な構造だったことがわかっています。大型建物は祭祀や政務(会合や謁見など)を司る場だったと考えられ、神秘性を重視する卑弥呼の鬼道とは相いれません。
纒向は外来系土器が卓越しているわけではない
纒向は日本列島各地からの外来系土器の比率が高いとされ、人々が訪ねてきた交易拠点であり、卑弥呼の都にふさわしいと言われます。外来系比率は1976年には15%と報告されましたが、その後は調査によって10~43%まで大きく異なり、評価が安定しません。他の遺跡と比較しても、纒向が外来系比率や地域的広がりで優れているとは言えません。
箸墓は3世紀中頃ではない
箸墓古墳は卑弥呼の墓と言われることがあります。箸墓の3世紀中頃には主に3つの根拠(中国鏡、三角縁神獣鏡、国立歴史民俗博物館の炭素14年代)が出されていますが、僕が検証したところ、いずれも不十分であることがわかりました。僕が歴博とは別のモデルを組み、炭素14年代で推定したところ、箸墓は300年前後になりました。
根拠が不確かなまま、メディアなどで「卑弥呼の墓」という枕詞が使われていることが問題です。箸墓の実年代についても僕のnoteで詳しく紹介しています。
箸墓古墳(2024年10月、筆者撮影)
三角縁神獣鏡は下位の鏡
三角縁神獣鏡は中国から卑弥呼に贈られた「銅鏡百枚」だとされることがありますが、僕は疑問です。三角縁神獣鏡の出現が年代的に会わないこと、三角縁神獣鏡は下位の鏡だと考えられることが理由です。
纒向のホケノ山古墳には、中国で230~250年に製作されたと推定される画文帯神獣鏡が副葬されました。日本列島に流入し副葬されるまでの期間は特定できませんが、それを足し合わせると、ホケノ山の年代は250年以降を見込むのが適切です。ホケノ山に三角縁神獣鏡の副葬はなく、三角縁神獣鏡の出現は250年以降であることを示します。
黒塚古墳(天理市)では三角縁神獣鏡33面が出土しましたが、すべて棺外でした。棺内の頭部近くに画文帯神獣鏡1面が置かれていました。三角縁神獣鏡は下位の鏡だったことを示します。
三角縁神獣鏡は国産鏡であり、4世紀にヤマト王権が中国鏡だと偽装した鏡なのではないでしょうか。
ヤマト王権に卑弥呼の記憶が残っていない
『日本書紀』などヤマト王権の正統性を語る文献に卑弥呼は登場しません。両者の断絶を示唆します。
常識的に3世紀に西日本全体で共立はない
僕は古代の交通インフラに詳しいわけではありませんが、3世紀に西日本全体で倭国乱があり、諸国間の合意で卑弥呼が共立されたとか、大和の勢力が九州北部に出先機関を置いて統治したなどということは信じられません。ヤマト王権が九州を統治するようになるのは6世紀初めの磐井の乱の後からとされています。
纒向が卑弥呼の都だとする説は、卑弥呼と対立した狗奴国の候補を尾張、駿河、毛野などとするようです。卑弥呼は中国に支援を求めています。近畿以東の戦乱のために中国に支援を求めるということがあるでしょうか。
纒向は誇大に紹介されることが多いです。3世紀の纒向の実態は、もう少し冷静に語られるべきだと思います。
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浦野 文孝
千葉市在住、古代史に関心のある一般市民。
note:https://note.com/fumitaka_urano