5月以来、毎日のように『江藤淳と加藤典洋』の宣伝ばかり考えて送る夏なのだが、ネットで嬉しい感想を見つけてしまった。7/22の投稿で、書いてくれたのは画家ないし絵師の人らしい。
嬉しいと言っても、別に「うおおおおこれが戦後批評の正嫡! ひとり勝ち! 著者には批評の覇王をめざしてほしいッ!」みたく持ち上げてるわけじゃない。むしろ拙著への違和感を踏まえつつ、その由来を掘り下げてゆく書き方が、「なるほどなぁ」と感じて気持ちよかった。
著者が歴史学を捨てて転身してきた文芸の現在は、江藤淳と加藤典洋が拘ってきた「捻じれ」をどのように表象しているのだろう?
(中 略)
この〔近年に芥川賞を取るような〕世代の書き手にとって<国>はもはや自明の<ホームランド>ではないと思える。<国>という概念ではなく、人種を超えた文化的な同族意識、自己の属する文化的コミュニティを<ホーム>であると思っているのではないだろうか。
(中 略)
そんな軽々と国境を越えていく者と、今や無効となりつつある<国>という概念の内側に閉じこもろうとする者の差異が露わになった時代なのだろう。前の世代の業績や成果を無にしないとするならば、著者の取り上げる文芸作品の間口を広くしてアップデートした次回作を読んでみたい。村田沙耶香さんとか、どのように長い長い戦後史の中に定位できるのか? 聞いてみたいものだ。
段落を改変し、強調を付与
江藤や加藤は、日本という〈国〉と自分との関係がしっくりこないことから出発し、その原因を戦前と戦後のあいだで生じた「ねじれ」に求めた。でも、〈国〉とか興味ないっすよ、そんなの自分とカンケーない場所なんで、意識しないッス、な感覚で書かれる小説にとっては、そうした論じ方こそしっくり来ないのかもしれない。
(※)なお村田さんの『コンビニ人間』(2016年)は、前に平成史の中に定位したことがある。
歴史を語る単位にしても、別に〈国〉じゃないといけないという決まりはない。たまたま近代のあいだは、①伝承ではなく過去の「史実」を復元したというタテマエの歴史が成立し、②そうした学術研究を支援するために(大学の設置などで)国がスポンサーになった。
でもいまや、Netflix が世界中から視聴料を取り立て、これまたグローバルに歴史コンテンツを配信する時代だ。そっちを見て自分の〈ホーム〉にしちゃダメなんですか? って言われちゃうと、一緒に連載してる浜崎洋介さんは激怒するかもだけど、ぼくは自信がない。
去年の今ごろは、「うおおおおお Yasuke ha Samurai!!」とだけ絶叫するイミフな歴史学者が国立大学からSNSへと出陣して、みんなの笑いものになったけど、まぁ、そうなるゆえんくらいはあったのだろう。
とはいえ、元歴史学者としては、そんな目新しい現象もまた過去にルーツを持つことの方に、どうしても気持ちが向かう。
初めて海外で、日本という〈国〉を無視して受容された作家は、太宰治である。「謎めいた魅惑の国JAPAN」を知るために訳されがちな谷崎や川端や三島と違って、太宰の小説は、世界の誰でも陥りうる Human Lost の探究として読まれた。
ドナルド・キーン 太宰治の本を読んで日本は美しい国だとか、日本の女性は歌麿の浮世絵に出ているような女性だとか、そういうような印象は全然受けないのです。……太宰治という「個人」、特別な作家が世界に対していろいろ感じたり、いろいろ悩んだり、そしてそういうような悩みに普遍性があってどの国の人でも共感できると、そういうことだったと思います。
(中 略)
奥野健男 つまり、カフカとかカミュとかなんかを読むのと同じような受け取り方をしたのではないでしょうか。
上記ムック、62頁
初出『國文學 解釈と教材の研究』1974年2月号
この意味で「Dazai」を継いだのは、1979年にデビューする村上春樹だろう。一見すると文体も翻訳ものっぽいし、日本という〈国〉を感じさせない。だから欧米でめっちゃ読まれて、ノーベル賞の候補になった。
……が、そう単純に行くものかなぁと、元歴史学者は思う。
第一作『風の歌を聴け』には、デレク・ハートフィールドという米国人の作家が出てくる。彼の生涯に影響を受けて、小説を書き始めたという設定なのだが、そんな作家は現実にはいない。
なので、作品を「現代アメリカ文学」っぽく見せて無国籍な感じを出すための、村上春樹のシャレだとされるけど、実は日本人のモデルが居るとする説がある。それも、けっこうな有名人だ。
川田宇一郎氏が1996年、『群像』の新人文学賞に入選した評論(同誌6月号)で述べた推定では、ハートフィールドとは庄司薫を示す暗号だ。論証は同氏の単著でも読め、説得力は高い。
1969年に芥川賞を受賞した庄司は、71年までに続編を矢継ぎ早に公刊、しかもうち2作は映画にもなる「時の人」だった。当時は大学紛争の時代だけど、丸山眞男の教え子として暴力や性の過激化をたしなめ、あくまで穏和に生きる「ふつうの若者」を描いたことが、逆に支持された。
……とは、『江藤と加藤』の告知を兼ねた3月の記事にも記した。で、同書の刊行を受け、「庄司薫―村上春樹―加藤典洋」という70年安保に前後するトリオを、いまもっと探究している。
メディアで引っ張り凧となった庄司は、時評集『バクの飼主めざして』を、1973年に出している。いちどは本名(福田章二)でデビューしたのに創作をやめ、ほぼ10年間沈黙して過ごした体験を、庄司はこんな比喩で語る。
ぼくがたまたま十年間「文学的に」沈黙していたというのも、結果的に考えれば、このような一種の世代的「失語症」のハシリだったのではなかろうか、と。
(中 略)
なんらかの知的な自己表現を行うには、その前提として、一定量の情報を習得することで伝統につながり、またその時代の全情報に対して自分の獲得しえた情報の相対的比重とその意味を知ることで、自分と社会との関係を把握する必要があると思われる。ところが現代ではこれがどうもうまくいかないらしく、そこから、特に若い世代がその自己表現の方法を追求する場合に、どうしても鉛筆やペンでなく角材や鉄パイプを握りたくなるという衝動が或る普遍性を持って現われる、
講談社文庫版、31-2頁
初出は『朝日新聞』1969年8月23日
(段落を改変)
ペンネーム(庄司薫)で再デビューしてからは、ミリオンセラーを出し取材を受けまくる「饒舌家」になるわけだけど、ハルキストの人はここで「あっ!」となっても、おかしくないはずだ。
『風の歌を聴け』で、主人公いわく――
小さい頃、僕はひどく無口な少年だった。両親は心配して、僕を知り合いの精神科医の家に連れていった。
(中 略)
14歳になった春、信じられないことだが、まるで堰を切ったように僕は突然しゃべり始めた。何をしゃべったのかまるで覚えてはいないが、14年間のブランクを埋め合わせるかのように僕は三ヵ月かけてしゃべりまくり、7月の半ばにしゃべり終えると40度の熱を出して三日間学校を休んだ。熱が引いた後、僕は結局のところ無口でもおしゃべりでもない平凡な少年になっていた。
講談社文庫版、28・32頁
川田氏に倣って作中の時間軸を復元すると、主人公(仮に、村上春樹の反映と見なそう)が突如饒舌になるのは、1963年の4月半ばだ。で、作品の舞台は1970年の8月だけど、両者に挟まる7年4か月は、あさま山荘事件から『風の歌を聴け』の公表までの期間に、だいたい等しい。
いま、英語で ”Hear The Wind Sing” を読む人には、知ったこっちゃないだろう。そうした海外の読者と同じように、村上文学に接する日本人も増えている。別に、なにも悪いことじゃない。
だけど、それは歴史を忘れている、ないしまだ見つけていないだけかもしれない。主人公が精神分析に通ったように、重すぎるトラウマほど自覚されていない分、探さなければ見つからず、現実への影響も深刻になりがちだ。
『倫理研究所紀要』で始めた連載「現代性の古典学」、2回目の今年(34号)は『バクの飼主めざして』を採り上げた。庄司薫から村上春樹へ、のほか、加藤典洋につながる別のルートにも、紙幅を割いている。
前も書いたように、歴史を書くことは、相手をケアする臨床に似ている。〈国〉なんて知らないよ、と言う人も、どこかの〈国〉で暮らす以上はその過去に巻き込まれて、自ずとなんらかの刻印を押されるだろう。
そうした、まだ口を開かない沈黙に耳を澄ます技法としてのみ、歴史はこれからも意味を持つ。世界が History-less になるときほど、そうした「気遣い」としての歴史が、いっそう大事になる。大学の歴史学はもう要らないが、批評としての歴史は、これからが本番だ。
参考記事:
(ヘッダー左は、『群像』1979年6月号。評論部門で入選した「新人」にも、時代を感じますね)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年8月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。