兵庫県丹波市の柏原(かいばら)で7月30日に、41.2度を記録して、日本観測史上最高気温を記録した。これまでは静岡県浜松市(2020年)と埼玉県熊谷市(2018年)の41.1度だった。ちなみに、20世紀については、和歌山県かつらぎ町の40.6度(1994年)が最高だった。
兵庫県丹波市 Map-Itより
さて、この柏原というのがどういうところか紹介しておこう。兵庫県は丹波の国の多紀郡と氷上郡を含む。丹波黒豆やイノシシを使ったボタン鍋が名物。果樹栽培も盛んで観光農園や屋外レクリエーション施設も多い。灘の酒造りを支える杜氏の故郷でもある。
JR柏原(かいばら)駅 丹波市観光協会HPより
2004年に丹波市となった氷上郡の中心は旧柏原町(旧柏原、新井)で、織田氏の陣屋がある。旧氷上町(成松、沼貫、葛野、幸世、生郷)には本州でいちばん標高が低い太平洋と日本海の分水嶺があって「水分かれ公園」になっている。旧青垣町(佐治、芦田、神楽、遠坂)はハンググライダーのメッカ。旧春日町(黒井、春日部、大路、国領、船城)は3代将軍家光の乳母、春日局の生地。明智光秀の配下にあった父・斉藤利三の所領だった。旧山南町(上久下、久下、小川、和田)は薬草で知られ薬草薬種公園がある。旧市島町(竹田、前山、吉見、鴨庄、美和)にはコープこうべが経営する野外活動センター「エルムいちじま」がある。
丹波市観光協会HPより
それでは、織田家だが、江戸時代にはこの柏原藩の織田家が宗家となっていた。織田信長の嫡孫・三法師丸は成人して織田秀信と名乗り、秀吉が死んだ時点では、18歳で権中納言で13万5千石の岐阜城主になっている。まずは、順調な歩みであり、熱心なキリシタンだったので、宣教師などは彼の天下を期待したらしい。しかし、出来がよいわけではなく、関ヶ原では尾張美濃2ヶ国を約束されて西軍に属したが関ヶ原の戦いに先んじて岐阜城は落城して高野山に送られてしまった。
織田秀信 Wikipediaより
それに替わって、宗家らしき地位に立ったのが、信雄の系統である。しかし、信雄の嫡男である織田秀雄は、秀吉から越前大野五万石をもらっていたが、関ヶ原の戦いの結果、改易され断絶。一方、父親の織田信雄は大和松山に五万石を得て、寛永七年まで生きたが、1616年には四男織田信良に上野小幡で2万石を分与し、松山の遺領は5男の高長が引き継いだ。どちらを宗家というかは微妙だが、高長家が信雄の遺領を引き継いだ。高長の孫である信武は元禄年間に諫言を行った重臣を殺害して自刃し、減封されたうえで丹波柏原に移された。この騒動を「宇陀崩れ」と呼ぶ。
織田信雄 Wikipediaより
一方、信良家は、明和年間に尊皇思想の持ち主である山県大弐が弾圧されたときに関係したとして出羽に移された。最初は高畠にあったが、天童に落ち着いた。戊辰戦争では当初、官軍についたのだが、庄内藩などから攻撃を受けて城下を焼かれ、同盟側に参加を強要された。
信長の3男以下のその後は、以下の通りである。信孝は信雄と争い自刃。秀勝は秀吉の養子となり、丹波亀山城主となるが1585年死去。勝長は二条城で兄信忠とともに討ち死。信秀は秀吉の死と同じころまで存命していたようだ。信長が晩年に気に入っていたらしい側室お鍋の方の子である信高の子孫は旗本として存続。信吉は関ヶ原で西軍に属して失脚。信貞の子孫は旗本及び尾張藩士。信好は消息不明。長次は関ヶ原で戦死。
信長には多くの兄弟があったが、江戸時代に大名として残ったのは、信秀六男の織田信包と11男の長益の家である。信包は伊勢の豪族長野氏を一時、嗣いで安濃津(津)城主となり、のちに丹波柏原に移った。孫である信雄の死後、無嗣断絶となった。このほか、信包の長男である織田信重が慶長年間に伊勢林で1万石を得たが、父の遺領を弟の信則が嗣いだことを不満として争い除封された。
織田信包 Wikipediaより
織田長益は千利休門下の茶人として知られ有楽斎と呼ばれた。東京有楽町にその名を残す。大坂城にあったが夏の陣を前に退去した。関ヶ原の戦いのあと摂津味下で3万石を得たが、のちに、五男織田尚長の戒重(のちに芝村)、四男織田長政の柳本の2藩に分かれた。長益の長男織田長孝も美濃野村で1万石を得たが、無嗣断絶となった。
織田長益 Wikipediaより
津田姓は織田一族が多く名乗るが、盛月は信長に仕えたが柴田勝家との争いで刃傷事件を起こして秀吉に匿われた。嫡男の信任は山科での千人切りの嫌疑で改易、次男の津田信成は山城三牧1万3千石だったが、京都で稲葉通重らとともに酒に酔って富商の婦女たちに集団暴行に及び改易された。