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(前回:ポツダム宣言に施された日本降伏遅延の仕掛け(前編))
米国は日本を降伏に追い込む作戦として、45年11月以降に南九州と関東平野に上陸する「オリンピック」と「コロネット」を準備していた。が、44年9月15日~11月25日のペリリュー、45年2月19日~3月26日の硫黄島、3月26日~6月23日の沖縄と、従前の突撃玉砕型から籠城抗戦型に変化した日本の戦法で戦死者が激増し、ヤルタ会談当時のルーズベルトには、本土上陸作戦による米兵の損耗を避けたい思惑から、ソ連参戦による日本の早期降伏への期待があった。
が、トルーマンには、ドイツ降伏前後のソ連の振る舞いを見るにつけ、対日参戦によるソ連の見返り要求がヤルタ密約の範囲を越えて、朝鮮半島や北海道に及ぶことの懸念があった。つまり、原爆投下によってソ連参戦前に日本を降伏させたいトルーマンには、ソ連参戦(8月8日)・原爆実験成功と投下(7月16日、8月6・9日)・日本降伏(8月15日)の時間との戦いが加わった。
そこで宣言の文案に戻れば、国務長官としての能力への疑義からステティニアス(元USスチール会長)を国連に出したいトルーマンは、宣言の起草を、日米開戦まで10年間駐日大使を務めた知日派で、ハーバード同窓のルーズベルトの信任厚かった国務次官兼長官代理ジョセフ・グルーに担わせた。
トルーマンは回顧録に「5月末にグルーがやって来て、日本に降伏を促す宣言を出したらどうかと言う。宣言では天皇が国家元首としてとどまるのを米国が許す旨、日本に保証するとされていた。」「私は彼に、自分もこの問題をすでに考慮しており、それ(グルー提案)は健全な意見のように思われる、と告げた。」と記している。
45年1月には長官代理を兼務したグルーは、在スイス日本公使館の海軍顧問藤村吉郎中佐と接触していた米国戦略情報局スイス支局長アレン・ダレスを通じ、日本が考えている降伏条件が「国体護持」のみであるとのインテリジェンスを得ていた。そこで駐日大使歴10年のグルーは、表向きは日本に対する最後通告でありながら、事実上は条件付き降伏案と受け取れる宣言を作成し、大統領に日本向けに発表させることを考えたのだった。
「皇室の存続」を保証するグルーの宣言第12条案と最終文言は次のようである(太字は筆者)。
グルー案:「連合国の占領軍は、これらの目的(*侵略的軍国主義の根絶を指す)が達成され、いかなる疑いもなく日本人を代表する平和的な責任ある政府が樹立され次第、日本から撤退するであろう。もし、平和愛好諸国が日本における侵略的軍国主義の将来の発展を不可能にするべき平和政策を遂行する芽が植え付けられたと確信するならば、これは現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むこととする。」
最終文言:「前記の諸目的か達成されて、かつ日本国国民の自由に表明された意思に従って、平和的傾向を持ち責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は直ちに日本国から撤収されるであろう。」
グルーはこの通告を45年5月31日に大統領声明として出すことを、5月29日の三人委員会(メンバーはスティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、グルー国務長官代理)に諮った。契機になったのは、長官代理になった後にスティムソンから原爆開発計画を知らされたことだった。
が、トルーマンの同意にも拘らず、委員会の結論はスティムソンが主張した「先送り」だった。スティムソンの部下だったジョン・マクロイはその理由を、「原爆を使う準備のことも考えなければならなかったから」と証言している。つまり、日本降伏は原爆投下の後であることが、当時の米国の方針だったのだ。トルーマンは回想録を潤色したのだろう。
ジェームズ・バーンズ登場
44年にコーデル・ハルが健康問題で国務長官を辞した時、ルーズベルトは次官のステティニアスを長官に昇格させ、次官にグルーを充てた。が、トルーマンが7月3日に国連大使に転出させたステティニアス国務長官の後任に選んだのは、次官兼代理のグルーではなく、負い目のあったジェームズ・バーンズだった。
バーンズは44年7月の民主党大会で現職のヘンリー・ウォーレスと副大統領候補指名を争った有力議員であり、トルーマンが、結局は自分が就任したルーズベルト政権の副大統領にバーンズを推薦していた経緯がある。またトルーマンとバーンズには共通点が二つあった。一つは共に日本に対する知識が乏しかったことであり、他は共に大卒でない叩き上げの上院議員だったことだ。
当時の米国の「大統領継承法」も、トルーマンがステティニアスを更迭し、グルーでなくバーンズを国務長官に据えた理由の一つだったに違いない。大統領が欠けて副大統領が昇任した場合、その在任期間は副大統領を置かず、国務長官に大統領継承順位が繰り下がる決まりだったから、万一自分が欠けた時、ステティニアスやグルーが大統領に昇任することを避けたのだ。
筆者はトルーマンが原爆の存在を知ったことも、バーンズを国務長官に据えた大きな理由の一つだったと考える。副大統領だった82日間、ルーズベルトから原爆はおろか政務全般についても何も知らされなかったトルーマンは、ルーズベルトの急死で「偶然」大統領になり、スティムソンから原爆開発を知らされた。
原爆完成が近いと知ったトルーマンは、それを使うことこそ前大統領に縛られず自ら下せる決断だ、と考えたろう。と同時に、20億ドルの巨費が正式な議会承認を経ず原爆開発に費やされていることも知り、原爆投下で日本を降伏させて、これを正当化しようとも思ったはずだ。そしてバーンズこそ、マンハッタン計画の責任者の一人として原爆開発の経緯を知悉する人物だった。
バーンズは、ヤルタから戻って直ぐに戦時動員局長官を辞していた。ヤルタの詳細を知りたいトルーマンは、ヤルタに同行したバーンズから会議の様子を聞こうとした。が、ルーズベルト側近のハリー・ホプキンスやアルジャー・ヒスほどには重要会議に出ていないバーンズはヤルタの詳細を知らなかった。
当時の政権内でバーンズ国務長官は最も対日強硬派(ハードピース派)だった。他のスティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、最長老のリーヒ統合参謀本部議長、マーシャル陸軍参謀長などは概ね対日穏健派(ソフトピース派)だったが、政権の外に対日強硬派が一人いた。日米開戦の引き金を引いたハルノートで知られる元国務長官コーデル・ハルである。
7月3日に国務長官に就任し、4日後にはポツダムに出発したバーンズの鞄には、スティムソンらの合意を得て第12条に「国体の護持」を謳ったグルー草案が入っていた。が、バーンズはオーガスタ号の中でトルーマンを説得し、前述した最終文案の通り草案から「国体の護持」を削ったのである。
これには「表向き」の理由が二つあった。一つは、天皇に批判的な当時の米国世論であり、一つはハルの助言である。出発前日の7月6日、バーンズから電話で相談されたハルは、回顧録に「天皇と支配階級の特権が全て剥奪され、他の全ての人たちと法の下の平等の立場に置かれなければならない」と記している。斯くてグルーの苦心は水泡に帰した。
バーンズはポツダムで別の逆転劇も演出した。発表直前にスターリンを宣言署名者から外し、蒋介石に差し替えたのだ。ソ連が対日参戦していないことが「表向き」の理由だった。「国体の護持」を削った理由も「表向き」と書いたが、真の理由があったからだ。それこそ「原爆を使う前に日本を降伏させない」という、おぞましいが故に決して表には出せない理由である。
宣言にスターリンの名前があると、和平仲介をソ連に託していた日本を絶望させ、原爆投下前に降伏させてしまう懸念があると考えたのだ。原爆開発に関与していたバーンズは「大統領の私的代理」として参画した、原爆使用検討のため45年4月に発足した「暫定委員会」で、「出来るだけ早く日本に原爆を使用」「目標は都市」「事前警告なし」の三項目を含む所謂「バーンズ・プラン」も纏めた。これを基に7月25日、トルーマンは原爆投下命令を発したのである。
以上の多くは傍証だが、バーンズとトルーマンが宣言から「国体の護持」と「スターリンの署名」を削った真の理由は、原爆投下まで日本を降伏させないことにあったと推察できるのである。よって米国はまた、原爆投下後の一刻も早い日本の宣言受諾を望んだことと思う。その傍証が、天皇の大権問題に拘らない8月10日のやり取りに見て取れる。
もし米国が天皇の大権問題を重視するなら、日本の受け入れ条件にある「その宣言が統治者としての天皇陛下の大権を損なういかなる要求も含んでいないと了解して」との文言にもっと拘泥したはずだ。が、米国は11日にバーンズ回答を出し、同じ日に「ポツダム宣言および1945年8月11日の私の声明(バーンズ回答)の完全な受け入れと見做す」と声明して性急に事を進めた。
ホワイトハウスの副報道官だったイーブン・エアーズは『ホワイトハウス日記 1945-1950』の8月11日の日記にこう記している。
大統領との朝の会議を行った。米英ソ仏の四か国が協議中であるということ以外いうべきことはない、と大統領は言った。(主任報道官の)ロスは10時30分の記者会見でこれを記者団に伝えた。そのすぐあと国務省は我々に一言の断りもなく、日本提案に対する米国の回答を発表した。その返事は、日本は天皇制を維持できるが、天皇も日本国民も連合軍最高司令官に従う、という内容だった。
つまり、原爆を投下したからには、日本にはソ連の参戦前に速やかに降伏させねばならない。そこでトルーマンはバーンズと図って宣言から一旦は削った「国体の護持」を容認する内容、つまりグルーの原案に戻したのだった。但し、それと判り難いような表現に替えて。即ち、次のような言い回しである。
十二 前記の諸目的か達成されて、かつ日本国国民の自由に表明された意思に従って、平和的傾向を持ち責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は直ちに日本国から撤収されるであろう。
が、スターリンはルーズベルトの置き土産を忠実に守り、ドイツ降伏からきっちり3ヵ月目の8月8日の日付が変る頃、赤軍を満洲と北朝鮮に殺到させた。日本が宣言を受諾した8月14日を挟み、11日には樺太、24日には千島に侵攻し、9月2日の降伏文書調印後の5日までに占領を完了すると共に、満洲と北朝鮮に日本が残した膨大な資産の大半を、60万人の抑留者と共にシベリアへ持ち去った。ここに東西冷戦が表面化したのであった。