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昨日は「ポピュリズムと歴史認識」について書いた。広島の「碑文論争」は数十年にわたって存在しているものだが、SNSでの大衆受けだけを狙った安易な取り扱いなどは、最近になって生まれてきた現象だろう。
やはり背景にはSNSの普及によって、言論人が、不特定多数に即座に語り掛け、大衆の反応も同時にうかがうこともできるようになったことが大きいだろう。
参議院選挙ではデマによる大衆扇動が行われたとの指摘がなされた。同時にロシアの選挙介入があるという話も出て、学者・評論家・ジャーナリスト・政治家が熱を上げる話題となった。
自民党はロシアの選挙介入の犠牲になったかのような立場からSNS規制に乗り出そうとしている。これに対して、参政党は、証拠もないまま他党を誹謗したり、SNS規制を行ったりするのは問題だ、という立場をとっている。
政治家同士の争いも大きな問題だが、私は学者なので、この状況に、学者や評論家層がかなり感情的な様相で関与していることに強い印象を受けている。日本語SNSでの運動を通じて、ロシアを撃退し、ウクライナの勝利のために貢献したいと本気で考えていらっしゃるようなのだ。
昨年の8月6日は、ウクライナのロシア領クルスク侵攻開始の日でもあった。その当時、軍事評論家や国際政治学者の方々が、高揚感に溢れた様子で、ウクライナを絶賛する言説を大量に流していた。私は、あまりにいたたまれなくなり、批判をする論考を書いた。
それから一年がたって、様子はどうか。ウクライナ軍は、7万人以上とも言われる犠牲者を出したうえで、クルスクから撤退した。ロシア軍はそのままウクライナ領に侵攻し、「緩衝地帯」を設定している。悪影響は東部戦線でも明らかであり、ロシア軍は各方面で顕著な前進を続けている。ウクライナ側に、クルスク侵攻によって得られたものは何もなく、失ったものだけだ。
通常であれば、この無謀な作戦を決行したウクライナ政府指導部の責任が問われなければならないはずだ。これはロシアの全面侵攻が国際法違反であるといった次元の問題とは、異なる次元での明白な政治責任の問題である。
しかしザルジニー前総司令官を罷免してまで、無謀な作戦の決行にこだわったゼレンスキー大統領の責任を問う議論は見られない。言論界では依然として、そんなことをしたら「親露派」とみなされて社会的に糾弾されてしまうという自己規制の雰囲気が強い。
なんといってもクルスク侵攻作戦を大絶賛した軍事評論家・国際政治学者の方々が自らの言説を顧みたりすることがない。ゼレンスキー大統領が絶対無謬なのは、称賛者の自分たちも絶対無謬のままでいたいからだ。
そもそも「ウクライナは勝たなければならない」「ロシアは負けなければならない」はどうなったのか。「・・・しなければならない」と繰り返し主張しても、都合が悪くなったら、ただ単に集団で忘れてしまえばいいのか。思い出す者を片っ端から「親露派」と糾弾して、社会的に抹殺していけば、それでいいのか。
参議院選挙におけるロシアの選挙介入も、都合が悪くなれば、「そんな古い話にこだわってどうする、また何か新しいネタを見つけて、とにかくロシアの悪口を言う政治運動を続けるぞ!」というのが、学者・評論家の社会的役割なのか。
おかしな時代になったものだ。
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