1945年8月15日は「第2次大戦の終わり」だった(帝国戦争博物館のウェブサイトからキャプチャー)
今年の8月15日は、第2次大戦終了からちょうど80年にあたる。
欧州諸国では1945年5月で終戦となったが、太平洋戦争はまだ続いていた。45年7月26日、米英中政府首脳の連名で日本に対して降伏勧告の宣言(「ポツダム宣言」)が出された。日本政府が宣言の受諾を決定するのは、8月14日である。同日夜、終戦の詔勅が発せられ、8月15日が日本の終戦記念日となる。
筆者が住む英国では、8月15日は「対日戦勝記念日(「VJデー」=Victory over Japan Day)」と呼ばれ、様々なイベントが開催される。今年も英国在郷軍人会連盟による式典が国立記念植物園で開催され、2分間の黙とうの時間が設けられている。各テレビ局が式典の模様を生中継する予定だ。
日英両国は1902年に日英同盟を結び良好な関係を維持したが、第2次大戦では敵同士となり、戦火を交えた。
英国から見た第2次大戦のとらえ方を紹介してみたい。
対日戦勝記念日のとらえ方
国立・帝国戦争博物館の特設ページによると、8月15日前後の夏は「第2次大戦の終結を思い起こし、反省し、追悼し、祝う期間」である。
1939年9月にナチス・ドイツに宣戦布告した英国は、5年半もの間、国民総動員で戦争の勝利に向けて尽力した。1945年8月6日、米軍が広島にそして9日に長崎に原爆を投下する。これを機に英国内では「戦争がもうすぐ終わる」という期待感が高まった。あまりのうれしさに、ロンドンのオックスフォード・ストリートで踊りだす人々もいた。
ウェブサイトには踊る群衆の写真が出ているが、日本人として複雑な思いを筆者は持った。
英首相の反応は
米国時間の8月14日午後7時、トルーマン米大統領が戦争終了を宣言する。このときまでに英国は真夜中になっていた。クレメント・アトリー英首相はラジオに出演し、「本日、日本が降伏した。我々の最後の敵が屈した」と国民に伝えた。
その3ヶ月前の「対欧州戦勝日(VEデー)」では、大勢の観衆がウィンストン・チャーチル首相の演説に耳を傾けていたが、1945年7月に行われた総選挙でチャーチル率いる保守党は敗北。勝利したのはアトリーの労働党だった。
選挙戦では、労働党は石炭や鉄鋼といった産業の国有化、国民保健サービス(NHS)の提供、全国的な住宅建設計画の実施を公約としてあげていた。戦時中に国家が用いた広範な権限を、市民の生活向上のために活用することは、「平和を勝ち取ること(winning the peace)」と表現された。
国民は「大戦は単に枢軸国を打ち負かすためだけでなく、より公正な社会を築くために戦われたのだと信じた」。労働党に将来を託したのである。
英軍人たちは
帝国戦争博物館によると、日本が降伏したというニュースは、連合国の軍人たちに安堵感をもたらしたという。もはや戦闘で死傷する危険はなくなったからだ。太平洋やビルマ(現ミャンマー)で従軍していた多くの兵士たちは、もうすぐ愛する家族のもとに帰れる希望を抱いた(英国はミャンマーをビルマと呼び続けているため、以下は「ビルマ」と表記する)。
ビルマのラングーン(現ヤンゴン)で従軍していたドナルド・ラッシュブルックはこう回想している。「すべてが終わったんだ。みんな『家に帰るぞ 』と言っていた」。
日本軍に捕らえられた連合軍捕虜の多くにとって、捕虜生活の肉体的・精神的衝撃は、その後の生涯にわたって続くことになる。
「1942年から1945年の間、第2次大戦中に日本軍の捕虜となった6万人以上の英国、英連邦諸国、オランダの兵士たちがタイとビルマを結ぶ『泰緬(たいめん)鉄道』の建設に従事させられ、1万6000人が命を落とした」。
「同じく建設に動員されたタイ、マラヤ*、ビルマ、オランダ領東インド(現在のインドネシア)出身の民間人約27万人のうち、死亡者数は10万人以上にのぼった」(*マラヤ:英植民地だったマレー半島の南部とボルネオ島の一部を指す地域名)。
日本の被害は
「日本では、原子爆弾の投下によって引き起こされた精神的衝撃と、都市の壊滅的な破壊の中に、人々はいまだ苦しんでいた」。特設サイトは原爆による即死者数を広島で推定約6万6000人、長崎で約3万9000人としている。その後の数か月、さらには数年にわたり、放射線による被ばくの影響で、がんや白血病に苦しんだことも記されている。「火の玉のような爆風とハリケーン並みの強風によって市街地に火災旋風(ファイアストーム)が巻き起こり、多くの民間人が全身にひどい火傷を負った」。
1945年8月15日、昭和天皇が玉音放送を行う。「それまで天皇の声が一般国民に聞かれることはなく、天皇は『現人神(あらひとがみ)』として崇められていたため、これは衝撃的な出来事だった」。
広島で被爆し、重度の火傷を負ったナカモト・ミチコさんが終戦の知らせを聞いた時の心情が紹介されている。「戦争に負けたと思うと悔しくて仕方なかった。でも、もう空襲が来ない、地下防空壕に行かなくても夜眠れるんだ、と思うと、少しはホッとした。だから、複雑な気持ちだった」。
戦争末期、日本は深刻な食糧不足に悩まされた。
米海軍のシャーウッド・R・モーランは、友人への手紙の中でこう記している。「東京は私が初めて目にした戦争の犠牲地だ。破壊され、無残な惨状となっていた。だが、私の心を最も揺さぶったのは、あの静けさだった」。
ドイツは
敗戦国となったドイツ。
他のドイツの都市と同様、ベルリンも連合軍の空爆や市街戦によって壊滅的な被害を受け、国中に深い傷跡を残していたという。住宅の破壊によって、多くのドイツ市民が住む場所を失い、ホームレスとなった。英詩人スティーヴン・スペンダーは、ケルンの市民の様子をこう記した。「廃墟の中を掘り返して食べ物を探し、聖堂近くの闇市で取引をしていた」。
ドイツ全土には飢えが広がり、国民は働くことと引き換えに食糧配給券を受け取っていた。
解放された強制収容所の生存者たちも、極度の飢餓状態の中で、なんとか生き延びようとしていたという。
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編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2025年8月5日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。