1945年8月の広島と長崎への原爆投下は、日本にとって忘れられない出来事だ。
筆者が住む英国では、毎年8月15日を「対日戦勝記念日(Victory over Japan=VJ Day)」と呼び、第2次大戦の終結を祝い、亡くなった人を追悼する。
英国から見た、日本への原爆投下の衝撃やその背景を国立の帝国戦争博物館の特設ページから紹介してみたい。サイトからの引用部分は「」で記している。
原爆投下後、エノラ・ゲイの乗組員が松山市上空から撮影したキノコ雲
Wikipediaより
広島、長崎の原爆とは
「1945年8月6日午前8時15分、広島は戦争で初めて使用された原子爆弾によって壊滅的な被害を受けた。爆弾は『リトルボーイ』という愛称で呼ばれ、米陸軍航空隊のB29爆撃機『エノラ・ゲイ』から投下され、市の上空約1800フィートで爆発した。爆弾はTNT火薬約12.5キロトンに相当する威力を持ち、市中心部約5平方マイルを焼き尽くし、最初の4日間で推定12万人が死亡した。爆風で即座に蒸発した人々もいれば、火傷や放射線の影響でその後に亡くなった人々もいた」。
「3日後の8月9日午前11時過ぎ、長崎の上空で2発目の原子爆弾『ファットマン』が爆発した。この爆弾は『リトルボーイ』よりもさらに強力だったが、地形の関係で、広島ほどの壊滅的な被害にはならなかった(本来の目標は小倉だったが、厚い雲に覆われていたため、爆弾を搭載したB29は長崎に目標を変更した)。それでも、市内の2平方マイル以上が粉砕され、約7万3千人が命を落とした」。
補足:TNT火薬約12.5キロトン相当とは?
TNT(トリニトロトルエン)は、爆薬の威力を測る基準(単位)として使われる。1キロトン(kiloton)=1000トンのTNTと同じエネルギーであり、12.5キロトン=1万2500トン分のTNTの爆発と同じ威力を持つ。
第2次大戦で使用された通常の大型爆弾は、多くても数トン分のTNT相当であったので、リトルボーイの1万2500トン分というのは、そうした爆弾数千発を一度に落としたような破壊力になる。
原爆の政治的効果
戦争博物館によると、「二度の原爆投下は連合国が望んだ通りの効果をもたらした」。8月10日、「日本は一定の条件の下で敗北を受け入れる用意があることを表明」し、8月14日、「ついに無条件降伏の要求を受け入れた」からだ。
翌15日は英国では「対日戦勝記念日」(VJデー)になる。ただし、「日本の最終的な降伏文書が調印され、第2次世界大戦が正式に終結したのは9月2日のことだった」。
なぜ原爆投下?
連合国側はなぜ日本の民間人にこれほど前例のないほどの破壊を与える必要があると判断したのだろうか?
戦争博物館によると、「ポツダム会談(1945年7月17日~8月2日)において、連合国は日本との戦争終結のための条件を策定した。その条件は、5月にナチス・ドイツと合意したように、日本が無条件降伏を受け入れることを中心としていた」。
「しかし、連合国側は、日本の昭和天皇が戦闘の終結を望み、要求された無条件降伏を受け入れる可能性が高い一方で、日本の軍部および民間指導部の『タカ派』がそのような屈辱的な状況に断固反対し、それがどのような形であろうと最後まで戦う覚悟があることも認識していた」。
連合国側はこの認識の下、無条件降伏を求めるポツダム宣言に向かっていく。
ポツダム会談開会前日の7月16日、米ニューメキシコ州北部アラモゴードの砂漠にある「トリニティー」(三位一体)実験場で史上初めての核実験が実施された。長崎に投下されたものと同じプルトニウム型原子爆弾の実験だった。
人造兵器としてはかつてないほどの破壊力を示す爆弾の実験で、「一瞬にして、戦争の様相は一変した」。
ダウンフォール作戦が計画されていたが
原爆投下前、日本本土への連合軍(主としての米軍)の全面侵攻計画「ダウンフォール作戦」が計画されていた。武力による無条件降伏を目的として、1945年11月から1946年春までの実施を予定した。
しかし、米軍の死傷者が「雪だるま式に増加し、中には数百万人に達するものもあったため、作戦立案者たちは必死に代替策を模索し始めた」。代替案として浮かび上がってきたのが、原爆投下だった。
米トルーマン大統領と政府高官は、「1945年6月以来、近い将来に核兵器が利用可能になる可能性が高いことを認識していた」。
「ポツダム宣言に対する日本の一見妥協のない対応、そしてダウンフォール作戦による犠牲者の急増が予測されていたことを踏まえ、日本に対する『特殊爆弾』使用という計画を実行することにほとんど躊躇はなかった」。
「当時の主要な意思決定者にとって、日本の都市に1発、あるいは複数発の原子爆弾を投下することは、はるかにましな悪と思われた」という。
勝利の代償は
この出来事をしばらく経ってから振り返って、最初の原子爆弾を開発した「マンハッタン計画」の元責任者、レスリー・R・グローヴス中将は次のように述べたという。
「広島と長崎への原爆投下は、第2次大戦を終結させた。それについて疑いの余地はない。恐ろしい規模の死と破壊をもたらした一方で、それ以上の損失——米国人、英国人、そして日本人の命——を防いだのだ」。
「この見解は、当時もその後も、主に無防備な民間人を対象としたこのような兵器の使用が正当化されるかどうかについての激しい議論を引き起こした。しかし、『核という魔神』は一度瓶から放たれてしまえば、もう元には戻せなかった。冷戦時代の超大国間の対立において、常に存在する『核の選択肢』という脅威は、1945年以降の世界政治を形づくることになった。広島と長崎は、『相互確証破壊(MAD)』という悪夢のような概念を世界にもたらし、今なお私たちを脅かし続けている」(以上、引用終わり)。
個人的な感想
ここまで読んで、皆さんはどう思われただろうか。
戦争博物館の「勝利の代償」という項目は格調高く終わっている。だが、英国は世界でも数カ国しかない核兵器保有国の1つなのである。
欧州ではロシアの侵攻で始まったウクライナ戦争の終わる道筋が見えてこない。ロシア・プーチン大統領がちらつかせるのは核兵器の恐怖だ。ウクライナの隣国の1つ、ポーランドでは自国で独自の核兵器を持つ構想もでるほど、きな臭い状況となっている。
「核兵器の威力」が以前にもまして、高まっている昨今だ。
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編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2025年8月19日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。