現代の尊王攘夷:外国人を受け入れたい日本政府の中途半端な意識と体制

尊王攘夷、幕末に日本が揺れに揺れた内乱と言ってよいでしょう。割とこの言葉がすんなり入ってこない人もいると思うのですが、漢字の意味が捉えにくいからかもしれません。

尊王、つまり王を尊ぶでこの場合は天皇中心社会を維持するという意味で使われています。攘夷とは攘が追い払う、夷は未開人=外国人という意味あいで使われているので尊王攘夷で天皇中心制の伝統、慣習、制度などを維持し、外からの影響を排斥するという理解でよろしいかと思います。

一方、幕末の開国論は実に深く、様々な軋轢や多くの血が流れる中、日本における一種の革命に近いものであったと個人的には考えています。では当時、日本はなぜ、開国に抵抗し、保守的な姿勢が強かったのでしょうか?私は学校では習わなかった記憶があります。私の理解する限りでは長崎を通じて入ってくるわずかな情報にヒントがありました。それは中国のアヘン問題です。

英国が仕掛けた中国(清朝)へのアヘンの売りつけで中国は困苦の状態になるも戦う姿勢を見せます。アヘンを海上投棄したりしたことで英国の怒りを買い、アヘン戦争となり、中国はその戦いに負け、香港割譲など大きな代償を払い、いわゆるアジア植民地時代の幕開けとなりました。

これが長崎を通じて江戸幕府や朝廷に伝えられたのです。外国は恐ろしいというイメージが植え付けられます。ならば鎖国をし続けなくてはいけない、外国から開国を求められてもそんな簡単に国を開いてはいけない、という動きが出るのは当然であります。

しかし、鎖国維持論は日本が一枚岩になったわけではありませんでした。そして幕府は「外国の要求にも軍事力にも勝てない」という考えに傾きます。見たことがないような大砲を搭載した軍艦がそこに浮かんでいるのです。驚愕する人もいれば吉田松陰のように乗り込んでもっと知ろうとする人もいます。坂本龍馬も考えが途中で変わった一人でしょう。

では現代における尊王攘夷ですが、今日の内容と言葉がマッチするとは思っていません。比喩なのですが、当たらずとも遠からず、ぐらいのつもりでお読みいただければと思います。

政府は外国から多くの人がやってくることを基本的に推し進める中、日本の文化伝統のみならず生活一般が影響を受け過ぎて維持できないという議論があります。では日本にいる外国人を排斥したいのか、といえばそういう考えの方もいらっしゃいますが、主流ともいえません。なぜなら日々の生活において外国人なしに日本の社会がもはや成り立たなくなりつつあるのです。

私はこの問題に入る前に戦後の日本の発展を一瞬だけ振り返ってみたいのです。今、70代ぐらいの方には現役時代、外国にモノを輸出することを商売として謳歌された方は多いでしょう。直接的、間接的いろいろあるでしょうけれど日本の高度経済発展において輸出が果たした役割は大きいのは誰もが認めるところです。しかし、その頃、日本に来る外国人は少なかったのです。つまり一方通行で日本だけがおいしい思いをしてきたとしても過言ではありません。

バブル崩壊後、日本の社会は大きく変貌します。様々な社会の慣習が逆転する、そんな状態になります。特に私が気になっているのは「社会の成熟化に伴う若者の変化」であります。生まれた瞬間から一定程度の社会生活レベルがあり、周りに貧困は少なく、消費社会は進化の一途を辿ります。そのような生活環境で育った子供たちに3Kの仕事をして欲しいと言ってもできないでしょう。それをするなら「ぷー太郎」の方が良いというほどなのです。

すると多くの重労働、長時間労働は高齢者頼みになります。しかし、いくら長寿の国とはいえ、限界があるのです。そして一生懸命働くことをいとわない高齢の労働者たちも続々リタイアする年齢にあります。ならば日本のコメは誰が作るのか、漁船に乗って魚は誰が獲るのか、大工は誰ができるのか、介護士は足りるのか、居酒屋に行っても注文したものがなかなか来ないことに耐えられるか、などいくらでも問題は起こりうるのです。

これをお読みの方は私の基本的思想をご存じだと思います。ただ勘違いしてほしくないのは私は無条件に開国せよとは一言も申し上げていないのです。なぜなら私はカナダに住み、就業を許される為に自分をカナダのやり方に合わせたことをよく知っているからです。「郷に入れば郷に従え」なのです。私はカナダに来た当時よく言われたのが「カナダにはカナダのやり方がある」「ここは日本ではない」という言葉でした。

移民大国カナダがなぜ世界のリーダー国として君臨できるのかといえば私を含め、多くの移民はカナダの厳しいルールを守ることを前提に滞在を許されているギブアンドテイクの契約があるからなのです。法律の縛りや道徳観も含め、移民の義務を果たさずルール違反すれば当局から「deport(国外退去命令)」の紙が来るのも知っています。事実、私の知り合いはたった一枚のその紙を受け取り、人生プランが狂った結果になりました。

一方、日本は外国人を受け入れる、受け入れないという議論の前に日本に外国人が理解、順守できる法律が存在するのか、という点を指摘したいと思います。先日、日本に住むスイス人の友人からも同様の指摘がありました。

石破首相と岩谷外務大臣 首相官邸HPより

日本の法律は緩く、「誠実協議条項」と称される「…双方が誠意をもって協議し、解決するものとする」というアレが外国人と日本人の解釈の差を生んでいると思うのです。外国人とどうやって誠実なる協議が出来るのでしょうか?日本の法律は外国人が絡むことを前提として作られてないと言い切ってもよいと思います。もっと言えば一昔前の善良なる日本国民が性善説に基づいて社会が営まれていた時のベースであり、今のように法律の抜け穴を探すことをコンサルと称して商売にしている輩が跋扈する時代を放置した点は大いに反省すべきでしょう。

日本は外国人との共生にはまだ基礎部分で不十分なところがあります。それを克服し、国民意識を変えることも重要ですが、それ以前に外国人を受け入れたい政府の意識と体制、仕組み、法律を改革しないと江戸幕府的な中途半端なものになりかねません。

日本は今、大きな変革の時期にあります。これは日本が望む望まざるにかかわらず、であります。とすれば政府は整備すべきを整備し、国民レベルでは共生の議論などは深めていくべきでしょう。民族問題など全く無縁だった日本ではなかなか大変だと思いますが、アメとムチという発想は重要です。ルール違反者は即刻国外追放という厳しさをもっと強く打ち出す一方、日本社会が次の成熟段階への発展を目指してもらいたいと思います。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2025年9月4日の記事より転載させていただきました。

アバター画像
会社経営者
ブルーツリーマネージメント社 社長 
カナダで不動産ビジネスをして25年、不動産や起業実務を踏まえた上で世界の中の日本を考え、書き綴っています。ブログは365日切れ目なく経済、マネー、社会、政治など様々なトピックをズバッと斬っています。分かりやすいブログを目指しています。