昨年の米大統領選でトランプに敗れた、カマラ・ハリスが回顧録を刊行して話題だ。もっとも大手のメディアでは、「バイデンを老害としてdisった」みたいなゴシップばかりが採り上げられる。
しかし、ホンモノの言論人が読む箇所は、そこではない。
米国の進歩派メディアPoliticoに、注目すべき記事がある。トランプ陣営に衝かれて重大な敗因になったとされる、トランスジェンダーの問題に関して、ハリスは(誤解を正す、という言い方で)自説を修正したとのことだ。
ハリスは回顧録で、トランスジェンダーの選手が女子スポーツのチームで競技することへの留保(reservations)を表明した。これは、長らく保守派として扱われてきた立場を、すでに表明している何人かの民主党員たちに同調するものだ。
トランプ陣営は選挙戦で、トランスジェンダーの権利に関するハリスの立場を叩き、“Kamala is for they/them. I am for you” のパンチラインで今や有名な宣伝(a now-famous ad)を打った。〔カリフォルニア州の〕ニューサム知事を含む全米の民主党員が、その効果を認めている。
(中 略)
ハリスはいまや、トランスジェンダーの選手が女子スポーツに参加することの公平性を疑問視(question the fairness)する民主党員に加わった。ニューサムも彼女に先んじて、トランスジェンダーの参加を「極めて不公平」(deeply unfair)に感じると述べて、民主党内の多くと袂を分かち、憎悪と称賛の声の双方が上がっている。
2025.9.19
Google翻訳を改訂、強調は引用者
Kamala is for they/themと言われても、ふつうの日本人にはわけがわからないが、ノンバイナリーなど「男女」のどちらかに囚われない性自認を主張する人には、heやsheを避けてtheyを使う潮流があった。トランプはそうした「意識高い用語」を揶揄したわけだ。
これは小ネタではなく、本人が指定した代名詞で相手を呼ばないと、「差別者としてキャンセルされる」的な事例が、バイデン政権下では起きていた。そんなバカげた話は終わらせる! という広告の趣旨が、有権者にめちゃ刺さったのである。
ちなみに、以下がその動画だ。「私たちの税金で、ハリスは獄中の男性が性転換する費用を出し、生物学的な男性が女の子たち(our girls)をスポーツで打ち負かすのを支援する!」と煽った後に、決めのフレーズが来る。
ハリスに先んじて、トランスジェンダーに対する姿勢を変更したニューサムは、移民排斥の問題でトランプと全面対決するリベラルの闘士。次の大統領選の有力候補2人が、従来の民主党の路線から転換した形になる。
つまり、トランスジェンダーの問題で “保守的” な立場を採ることは、「トランプだから・共和党だから・ウヨクだから」ではもはやないのだ。むしろ “革新的” な立場のサヨクな人(?)こそ、今後は世界の孤児になる。
私はトランスジェンダー女性で “差別されてる!” と叫んでも、もう米国では本人の免罪符にならない。英国でも今年4月に最高裁が全員一致で、トランス女性と生物学的な女性は「異なる」と評決した。どちらも、このnoteでは既報のとおりだ。
実際これらの動きに、「ハリスやニューサムは差別者!」「うおおお英国最高裁に抗議のOpen Letterを!」と、得意の英語力で発信する日本の大学教員とか見ないでしょ?(笑) そう。彼らはしれっと言い逃げし、祭りは終わったのだ。
が、世の中には逃げられない人もいる。
なにより一番の被害者は、トランスジェンダーの当事者だろう。”ブーム” に踊っただけの応援団が、暴れるだけ暴れてから「言い逃げ」したせいで、当事者にまで「生物学的な女性の領分を侵すのを当然視する人たち」といったレッテルが貼られ、以前よりも偏見は強まっている。
それに次ぐ被害者は、エラソーな応援団に煽られて「乗っちゃった」人たちだ。高名なセンセー方が援護してくれるはずが、彼らはさっさと銃後から言い逃げし、孤立無援で前線にポイ捨てされて見殺しになる。まるで戦時下の玉砕である。
たとえば、従来からトランスジェンダー論争の舞台になってきた、日本文藝家協会の会報には今年の5月、こんな文章が載っている。書いたのはどんな人か、想像しながら読んでみてほしい。
会報の会員投稿で、何度か差別的な文章を目にした。そして、その中には、「生物学的に」とか「科学的に」のようなフレーズが入っているものがあった。
(中 略)
「生物学的に」という言葉から入って、誰かを否定するようなやり口は一つ残らず全て、ペテンである。生物学はそんな学問ではない。
『文藝家協会ニュース』2025年5月号、5頁
「生物学はそんな学問ではない」とまで言うからには、相応の業績がある生物学者かなと思うでしょ? 違うんです。もう “ブーム” は終わったんで、まともな学者は乗ってきてくれないんすよ。
なので、著者はこちら。
文中でもほのめかしがあるとおり、いま(文系の)大学院に通っているタレントさんだ。もちろん誰にだって、社会に発言する権利がある。が、勝手に「学問」の看板をロンダリングするようでは、話は別になる。
たとえば進化生物学の業績で知られる長谷川眞理子氏は、『文藝春秋』2024年3月号への寄稿で、明快にこう述べる。
一部では、「男女に本質的違いはない」「男女の違いはすべて社会的につくられたもの」という主張までなされています。生物学者として、こうした主張には賛同できません。
(中 略)
「鹿もクジャクも、メスの生き方とオスの生き方はまったく違う」「人間だけ性差はない、というのはあり得ない」と主張してきた。「性差別」に反対しながらも、ヒトにも「性差」は存在する、と。
鹿やクジャクへの言及からもわかるように、ここで言われているのはむろん “生物学的な” 性別の話だが、タレント氏は長谷川氏にも、あなたの主張は 「一つ残らず全て、ペテンである。生物学はそんな学問ではない」と言うのだろうか?(苦笑) 尋ねてみたいものである。
これは笑い話ではない。また、トランスジェンダーに限った話でもない。
毎日がウィルスの話題に明け暮れて始まった2020年代は、「専門家」の看板さえ振りかざせば、ニセモノがなにを言ってもOKな時代だった。単なる自分の偏見や、時の世論への媚を、専門の名を掲げて学術的にロンダリングする犯罪を、タレント氏よりも遥かに高位の学者が犯してきたのだ。
そうしたセンモンカの「言い逃げ」ぶりは、理系も文系も変わらない。もちろん逃亡犯は捕えられ、裁かれなければならない。
先日は「組閣特集」につきご紹介した、発売中の『正論』11月号には、そんな未来の法廷での起訴状に相当する拙稿も、載せてもらっている。題して、「トランス問題と “偽知性主義” 暴走する学者・専門家たち」。
私の文章の中でも、ぜひ多くの人に読まれてほしい。もはや大学院生にさえ「自分はもう学者ってことにして、フカシちゃおうか」と侮られるほどにまで、堕ちきった学問の信頼を、取り戻す最初の一歩が記されている。
参考記事:
(ヘッダーは今年5月、トランスジェンダーが1位の場合は生物学的な女性との「共同優勝」とした米国の陸上大会。中央日報より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年10月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。