決選投票を前にした演説で、小泉進次郎氏は繰り返しこう語った。
「力不足」「未熟さ」「まだまだ至らぬところもある私」——。聞いていて思わず居心地の悪さを覚えたのは、私だけではないだろう。これは謙虚さなのか、それとも自信のなさなのか。
その境界線を見誤ったことが、この演説の、そしておそらく彼の敗因の核心だったのではないか。
日本社会では謙虚さが美徳とされる。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉が象徴するように、能力のある者ほど謙遜するのが美しいとされてきた。だが、リーダーを選ぶ決戦の場で求められるのは、そうした日常的な美徳ではない。「この人なら任せられる」という確信であり、「この人についていきたい」という情熱である。
小泉氏の演説には、その確信を与える要素が決定的に欠けていた。「少しはこの1年で成長したかもしれませんが、最大の要因ではないと思います」——この一節は象徴的だ。成長を認めながらも即座にそれを否定する。まるで、自分の成長を信じていないかのようだ。
リーダーが自分自身を信じられないのに、どうして他者が信じられるだろうか。
さらに問題だったのは、自らの弱さを強調した上で「仲間に恵まれた」というチームワーク論を展開したことだ。氏は言う。「私ができなかった部分の仲間づくりまで、広げてくれた」と。一見すると美談に聞こえる。しかし、これは致命的な論理構造の欠陥を抱えている。
チームワークには二つの形がある。一つは、強力なリーダーが自らの限界を認識し、それを補完できる優れた人材を集めて最強のチームを作るというもの。もう一つは、能力不足のリーダーが仲間に依存してなんとか機能しているというもの。小泉氏の語り口は、明らかに後者の印象を与えてしまった。
「至らない私」を前面に出した上でのチームワーク論は、「私一人では何もできないが、皆がいるからなんとかなる」というメッセージになってしまう。これでは、強いリーダーシップは描けない。
本来であれば、「私には明確なビジョンがあり、それを実現するために最高の人材を集めた。一人ひとりの強みを活かし、チーム全体で日本を変える」と語るべきだった。強さを前提としたチームワークこそが、真のリーダーシップなのだ。
決選投票という場面の特殊性も理解されていなかった。これは単なる所信表明ではない。既に一度の投票を経て、二人に絞られた最終決戦である。聴衆の多くは既にどちらかを支持しているか、まだ決めかねている。
この場で必要なのは、「私に賭けてみよう」と思わせる力強さと具体性だ。不安を抱えた人々が求めているのは、「一緒に悩みましょう」という共感者ではなく、「私がなんとかします」という決断者なのである。
興味深いのは、この演説が「感謝」という言葉で満ちていたことだ。感謝は美しい感情だが、決選投票演説の主題にすべきものではない。感謝は内向きの感情であり、既に自分を支持してくれている人々に向けたメッセージだ。
しかし、勝利のためには、まだ支持を決めていない人々、あるいは対立候補を支持している人々の心を動かさなければならない。彼らに必要なのは感謝の言葉ではなく、希望のビジョンと実現への確信である。
政治の世界では、「謙虚な政治家」という像が好まれることがある。だが、謙虚さと弱さの告白は違う。謙虚さとは、自らの限界を知りながらも、与えられた責任を全力で果たそうとする姿勢のことだ。一方、弱さの告白は、「私にできるかわかりません」という責任回避のメッセージになってしまう。
小泉進次郎氏の演説が教えてくれたのは、リーダーシップにおける自己認識の重要性である。自分の弱さを知ることは大切だ。しかし、それを公の場で強調することと、それを内省の糧として成長することは全く別の話だ。リーダーは、自らの弱さを知りつつも、強さを信じ、それを他者に示さなければならない。
謙虚さは美徳だが、リーダーシップは確信である。「至らぬ私」に未来を託す者はいない。人々が求めているのは、自らを信じ、前に進む覚悟を持った者ではないか。
尾藤 克之(コラムニスト、著述家)
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