フランス・ルーブル美術館での宝飾品強盗事件が大きなニュースとなっているが、今年から来年にかけて、欧州アート界のビッグニュースの1つといえそうなのが、仏北西部ノルマンディーに保管されている「バイユー・タペストリー」の英国への貸し出しだろう。
タペストリーが英国(制作時はイングランド王国)に戻るのは「約千年ぶり」で、歴史的出来事ともいえるが、貸し出しをめぐって、「永遠のライバル」ともいえる英仏間でちょっとした事件が発生した。
これまでタペストリーは、ノルマンディー地方のバイユー市にある専用博物館で展示されていたが、この施設は2025年9月に閉館し、約3800万ユーロ(約63億円)規模の改修・拡張工事の準備が始まっている。新館ではタペストリーを収蔵する新しい展示ウィングが建設される予定だ。
その間、2026年9月から2027年7月まで、タペストリーは大英博物館に貸し出されることになっているが、仏アート界を中心に「貸し出してはいけない!」という署名が7万近くも集まった。
バイユー・タペストリー美術館HPより(編集部)
バイユー・タペストリーとは
「タペストリー」というと通常は織物を指すが、これは長さ70メートルに及ぶ、麻布に毛糸で施された刺繍画だ。
11世紀にノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服した「ノルマン征服」の様子を絵物語のように描き、当時の歴史や文化を伝える貴重な遺産として世界的に知られている。
筆者は、フランスからの「貸し出し反対」の声を興味深く追っていた。というのも、二度の世界大戦では同盟国として戦った英国とフランスだが、中世から近代まで数世紀にわたり戦争や対立を繰り返してきた宿敵かつ欧州での覇権を争うライバルでもあったからだ。現在でも互いをステレオタイプ化してジョークの対象とすることは珍しくない。
当初、筆者はフランスのアート界で巻き起こった貸し出し反対の動きを英国へのライバル意識の延長と受け止めていた。しかし、実際はそれだけではなかった。背景事情を見てみたい。
タペストリーの制作事情と政治合意
「900年後に、英国に戻ってくる」。
今年7月、スターマー英首相とマクロン仏大統領が大英博物館への貸し出しで合意すると、英新聞各紙はこのような見出しを掲げた。もともと英国で制作された可能性が高いとされるためである。
もっとも、制作地・制作者について確定的な史料はない。
定説としては、ウィリアム征服王の異父弟で征服後にカンタベリー大司教区を支配したオド司教が発注者とされる。最初に保管されたのもオドが建設を主導したバイユー大聖堂であった。
刺繍技法やリネン布の織り方はイングランドの様式に近いとされるが、博物館の公式立場は「制作地・制作者は不明」である。明確な契約書や寄進記録などが残っていないうえ、フランス文化財としての位置づけに影響しかねないためであろう。
ブレグジット後の関係修復を願う
2018年、マクロン大統領は英国の欧州連合(EU)離脱=ブレグジット=後も英仏間の友好関係が続くことを象徴する意図も込めてタペストリーの英国への貸与計画を発表した。その後、数年間の調整を経て、今年7月に具体的な貸し出し合意ができたというわけである。
貸出合意が発表されると、仏美術史家ディディエ・リュクネール氏がタペストリーは非常に脆弱で、輸送によって損傷を受ける可能性があるとして貸し出し停止運動を開始する。あっという間に数万の賛同署名が集まった。
博物館の元館長イザベル・アタール氏も「万が一何かが起これば、どんな金銭的補償や代替物であろうと取り返しがつかない」と警告する。
筆者は美術の専門家ではないが、リュクネール氏が英BBCのラジオ番組でタペストリーが前回美術館の外に出たのはいつかと問われて「第2次大戦時のナチス政権下だった」と答えたとき、今回の移動計画の歴史的重大さがしみじみと迫ってきた。
バイユー博物館の説明を参考にしながら、タペストリーのこれまでの歴史を振り返ってみる。
バイユー聖堂に飾るためだった
バイユーのタペストリーは、11世紀に建てられた新しいバイユー大聖堂を飾るために制作されたと考えられている。1476年の日付が入った大聖堂の宝物庫の目録には、このタペストリーが所蔵品の一つとして記載されている。
タペストリーは教会用品として使用され、年に一度だけ教会の中央通路の両側の柱や壁に沿って、長いタペストリーを吊るしていた。残りの期間は聖具室の木製の箱に保管されていたという。
その後はおよそ700年間にわたりバイユー大聖堂に留まった。他の文献がタペストリーに言及するのは、18世紀初頭である。
フランス革命後の1794年、バイユー地区の美術委員会がタペストリーを接収し、その保護を確実なものとした。
ナポレオン博物館で展示
1803年、内務大臣がバイユーが属するカルヴァドス県知事を通じて、タペストリーをパリに送るよう要請。目的は、ナポレオン博物館で展示するためだった。
タペストリーは乗合馬車で運ばれ、1803年12月6日から1804年2月18日まで、ルーヴル宮殿のアポロン・ギャラリーに展示された。
当時、ナポレオンはイングランド侵攻を準備しており、この作品が征服の正当化に用いるプロパガンダの道具と見なした、という説もある。
1812年以降、タペストリーはバイユーの市庁舎に保管された。一般には毎年9月に展示され、管理人は訪問者に見せるため、巻き取り式のハンドルを回してテーブル上に少しずつ広げる方法で公開していた。
1842年からは、市庁舎の「マチルダ・ギャラリー」において常設展示されるようになった。このギャラリーは、現在はバイユー・タペストリー博物館の一部となっている。
第2次大戦とタペストリー
1938年9月、第二次世界大戦が勃発する前にタペストリーは市立博物館の主要なコレクションとともに搬出され、安全な保管庫に移された。
1939年には、タペストリーはドワイアン館(Hôtel du Doyen)の地下避難所に収められ、2年間その場所に保管された。ドワイアン館はバイユー大聖堂のすぐ隣に位置していた。この間、保存状態を確認するため、毎月一度広げて点検が行われたという。
政治的・軍事的な象徴性があるタペストリーはナチス・ドイツの関心を引き、「アーネンエルベ(祖先遺産学術研究所)」の調査チームに研究を命じている。
1941年には、タペストリーはトラックでサルト県にある国立美術館の収蔵庫へ移送され、1944年6月26日までそこに保管された。
しかし連合軍の進撃を受け、ドイツ当局はタペストリーを接収し、パリのルーヴル美術館へ送った。
ナチスがタペストリーをベルリンに持ち出さなかった理由については諸説ある。大型かつ脆弱な作品の輸送リスクがあり、かつ調査対象としての利用価値が重視されたためと考えられている
戦後は
タペストリーがすでにルーヴルにあったことから、新たな展示が19944年11月10日から12月15日まで、イタリア初期絵画室にて開催された。タペストリーは全長70メートルの展示レールに沿って掛けられ、来館者がその全体構成を一望できるようになっていたという。
1945年3月、作品はバイユーへ戻され、同年10月、再びドワイアン館のガラスケースで展示された。
1983年以降は専用のバイユー・タペストリー博物館で公開されてきた。改装後、再オープンは2027年の予定だ。
フランスを離れたことがないタペストリー
大戦中を通じて、タペストリーは戦火による破壊や略奪などの危険にさらされながらも、フランスを離れなかった。損害の危険を冒してまで国外に出すことに対し、フランスで慎重論や警戒論が噴出しても不思議ではない。
今年3月、タペストリーの断片がドイツ北部シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の公文書館で見つかった。公文書館によると、断片は考古学研究者カール・シュラボウ氏の遺品の中にあった。シュラボウ氏は1941年、ドイツ人科学者チームの一員としてタペストリーを再測定するようナチ親衛隊(SS)から命じられた。断片は、その過程でタペストリーの裏側から剥がされたものと見られている。断片は年内にフランスに戻される予定だ。
動員数見込みは?
大英博物館のジョージ・オズボーン理事長は、「これはツタンカーメン展(1972年、170万人来場)や始皇帝兵馬俑展(2007年、85万人来場)と並ぶ記録的な展覧会になるのではないか」と期待を込めて述べている。
バイユーのタペストリー博物館では年間約42万人(一日の平均約1300人)の来館者があり、大英博物館も少なくとも同程度かこれ以上の数を見込んでいるようだ。
展示方法はどうなる?
「ザ・アート・ニューズペーパー」のマーティン・ベイリー記者によると、バイユー博物館ではスペースの制約から全長70メートルの刺繍布をU字型に展示していたが、「これは保存上理想的ではなく、垂直展示による布地への負担が課題」だった(10月15日付記事)。
大英博物館のセインズベリー特別展示ギャラリーにはタペストリー全体を一続きの直線で展示するスペースがあるという。
また、美術品保存の専門家によると、最も安全な展示角度は「水平から60度の傾斜」で、光量は極めて低く抑えられ、作品の退色を最小限にするべきという。
タペストリーにはすでに数千の裂け目や欠損などがあり、公開前に修復作業が行われる予定だ。
フランスからタペストリーが貸与される代わりに、英国からはフランスに「ルイス島のチェスマン(12世紀前後)」「サットン・フー出土の遺宝」などが貸し出される。
フランスのバイユー博物館は2027年10月、ウィリアム征服王の生誕1000周年を記念して再開館予定となっている。
ウィリアム征服王とは
ウィリアム征服王(およそ1028ー1087年)とは、当時フランス王国の一部であったノルマンディー公国の支配者。1066年、イングランド王エドワード懺悔王が亡くなり、後継者争いが発生する。ウィリアムは「エドワード王から王位継承を約束されていた」と主張した。
ところが、イングランド貴族の支持を受けたハロルド2世が王に即位してしまう。これに対しウィリアムはフランスから軍を率いてイングランドへ上陸し(「ノルマン征服」)、1066年10月14日、ヘイスティングズの戦いでハロルド2世を破り、イングランドを征服した。ウィリアムは「征服王」と呼ばれるようになった。
ウィリアムは全国の土地所有を調べてまとめた有名な記録書「ドゥームズデー・ブック」を編纂したことでも知られている。
ノルマン人はイングランドの支配階級となった。ノルマン人のフランス語がイングランドに入ることで、英語に大量のフランス語由来の単語が加わった。
政治的にはイングランドとフランスは複雑な関係になった。イングランド王はフランス国内の最大の領主でもあったために、フランス王にとっては、自国の有力家臣が隣国の王でもあるという屈辱的な状況となってしまったのである。領地と主従関係がねじれた軍事的領土をめぐる争いが続き、百年戦争へ発展していく。
タペストリーとウィリアム
バイユーのタペストリーは、ウィリアムのイングランド征服の物語を描く。ウィリアム自身、彼の軍勢、ハロルド2世、そして戦いの場面などが鮮やかに表現されている。
※新聞通信調査会が発行する「メディア展望」10月号掲載の筆者記事に補足しました。
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編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2025年11月3日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。