読書の秋なので敢えて本と現代社会という観点から考えてみたいと思います。
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「紙の本、侮るなかれ 京極夏彦氏 小説家」(日経)という記事があります。本好きの人がこの記事を読むと思わずそうだ、と頷いてしまう内容です。その一節をご紹介します。「本作りの目的は、ムダをなくすことではない。そもそも小説自体が読まなくても困らないもので、人生のムダだともいえる。本作りとはムダを排除するのではなく、むしろ取り込んでいくものではないか」。
「あらゆる趣味は良い意味で無駄の極みである」(by ひろ) というのは語弊があるかもしれませんが、人間生活全てが効率化、タイパという訳にはいきません。効率重視と「ゆるーい」時間の組み合わせこそが人生のメリハリとも言えるでしょう。例えばの話、タイパを突き詰めれば酒を飲むという行為そのものも無駄となります。なぜなら酒を飲めば酔う、するとその後、寝るまでの時間は無為に過ごすか、効率の悪いことをすることになるでしょう。つまりタイパを極める観点からすれば酒など飲むな、という話になるのですが、それをそうだ、そうだ、と言えるかどうかは微妙です。
本を読むという行為もある意味、時間を無駄に使っているわけです。私の場合、乱読しますが、丁寧に読む本とさっさと読む本は概ね初めの10-20ページでなんとなくわかります。例えば読み込んでいる司馬遼太郎の本は文章が重たく濃密なこともあり読書スピードが上がりません。4-500ページの文庫は読み終えるのに6時間以上ぐらいかかると思います。もしもあらすじだけ捉えたいなら4時間で終わるかもしれませんが、それでは司馬遼太郎文学の面白みは半減どころか何もわからないのであります。
この無駄、あるいは反タイパこそ、今の現代社会で意識すべきことなのだと思います。いわゆる自己啓蒙書とか若い方々のタイパ意識とはある特定の目的や作業内におけるタイパを指すことが多く、24時間毎日タイパ漬けになっている人は少ないと思います。そこれそ、そこまで言うなら睡眠時間は極限まで削ることを正とするでしょう。
なんでこんなことをくどくど書いているのかというとAIには無駄という観念があるのか、という疑問なのです。そしてほぼ全ての人はそれぞれ別の無駄に対する価値観を持っています。AIがまだ介入できない領域が実は人々の壮大なる無駄意識に対する価値観ではないかと思うのです。私の無駄という定義は通常より過剰な状態を言います。例えば掃除をするのに1時間で済ませるところを2時間かければそれは掃除好きでご本人はそれに大変な満足感を持っているといえるでしょう。しかしこの満足度はAIでは理解できないと思うのです。
釣りの好きな方は仮にその日、坊主(一匹も釣れないこと)だったとしても「あぁー一日無駄にしたな」とは言わないでしょう。「今度はでっかいのを釣ってくるぞー」のはずです。パチンコが好きな人は朝開店から閉店近くまで粘り、「あぁ、今日は通算5万円負けたな」。しかし、パチンコ熱は更に上がるはずです。人間は無駄なことに熱心になるのです。傍から見れば「魚屋で買えばいいのに」「5万円あればうまいもの食えたのに」なのですが、そういうものは金銭に変えられないのです。
われわれ人間は機械ではないことをこの時悟るのです。このブログ、1回読んで2度と来ない人もいるでしょうが、結構常連さんが多いと理解しております。理由は誤字脱字に異見異論など散々だからかもしれません。「お前、炎上ビジネス的にわざとやっていない」と思われるかもしれませんが、私もわざとやるほど暇ではないので皆さんのご指摘にペコリということはよくあるわけです。ではNHKとかもっと有名でまともなインフルエンサーではなくてなんでひろのこの中途半端に長いブログをわざわざ楽しみにするのかと言えば「今日は何のテーマで振ってくるのか」と話の展開がややユニークだからかもしれません。なぜユニークかと言えばひろの独特の世界観があるからかもしれません。これはAIが機械的で平均的で最も妥当で凡庸な回答よりは唐辛子がピリッと効くこともあれば、不味くて食えないことがあるからかもしれませんね。
私はAI時代が到来するにあたり自分の価値観や生き方、哲学をAIとどう区別し、自分らしさを維持するか、考え、試行錯誤しています。さもなければテクノロジーに飲み込まれてしまい、あたかも最新のツールを使いこなすことが「イケている奴」と思わるのが悔しいのであります。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2025年11月16日の記事より転載させていただきました。