なぜ『アナ雪』が最後だったのか:メロディーが失われ、戦争だけが共同体を呼び戻す

かつて、世界には「誰もが知っている曲」が存在した。

1980年代、マイケル・ジャクソンの『スリラー』がMTVと共に世界を席巻した。1990年代、映画『ボディガード』のホイットニー・ヒューストン「I Will Always Love You」や、『タイタニック』のセリーヌ・ディオン「My Heart Will Go On」が、世界中の人々の耳に届いていた。

私たちは皆、同じ曲を聴き、同じメロディーを口ずさんでいた。あの頃は、それが当たり前だった。

しかし、今どうか。 2017年の「Despacito」はYouTubeで88億回再生され、2019年の「Blinding Lights」はSpotifyで人類史上最もストリーミングされた曲となった。 数字の上では、これらは『スリラー』を凌駕する世界的ヒットだ。

しかし、あなたはこの曲を知っているだろうか。 「知らない曲ばかりだ」。 ある70代の読者は、近年のヒットチャートを見てそう呟いた。 「『江南スタイル』以降、誰もが知るヒット曲など、一曲も聴いたことがない」と。

この「再生回数(数字)」と「体感(誰もが知っている)」との間に横たわる、巨大な断絶こそが、本書の出発点である。

私たちが「共通の歌」を失った分岐点。 それが、2013年のディズニー映画『アナと雪の女王』の主題歌、「Let It Go 〜ありのままで〜」である。

「Let It Go」は、その前年(2012年)のPSY「江南スタイル」とともに、奇跡的な存在だった。テレビとYouTube、旧メディアと新メディアの両方を制覇し、子供と大人が、国境や趣味嗜好の壁を超えて同じメロディーを口ずさんだ。 それは、私たちが体験した「最後の共通体験」であり、「最後の世界的ヒット曲」だった。

なぜ『アナ雪』が最後だったのか。 「ヒット曲の消滅」は、単なる音楽の流行の変化ではない。 私たちが「同じ国民である」「同じ時代を生きている」と“想像”するために必要だった共通の燃料(=文化)が、社会から失われ始めたことを示す、最もわかりやすい文化的象徴である。

本書は、「なぜ『アナ雪』が最後だったのか」という問いを手がかりに、私たちが生きていた〈共通世界〉がいかにして終わり、その先にあるものは何なのかを解き明かす試みである。

まず、この「メロディーの喪失」の最も深い根源――西洋音楽がその土台であった**「神への祈り」「教会共同体」**から切り離された、最初の断絶を明らかにする(第1章)。

次に、その「絶対的な神」を失った音楽が、いかにして「専門性(アカデミズム)」や「芸術性(ビバップ)」という「新しい神」を見出し、大衆から(自ら)離れていったかを論じる(第2章)。

そして、その「宗教」が失われた空白を埋めるため、近代国家が「国民」という「人工の儀式(=紅白歌合戦、オリンピック)」をいかにして作り上げたか(第3章)、その「人工の神」がAIアルゴリズムという「個人の快楽」の前にいかにして敗北=解体したか(第4章)を分析する。

最後に、私たちは恐るべき現実に直面する。 「神」も「国家」も失い、「個人」に解体された私たちが、「共同体」を(皮肉にも)強制的に取り戻す最後の力――それが「戦争」である。 今、ウクライナやロシアで起きていることは、音楽がその原初的な(政治的な)力を取り戻した姿に他ならない(第5章)。

これは、音楽評論の形をとった、現代文明論である。 私たちが失ったメロディーの源流と、その「合唱なき世界」に残された、ささやかな希望(終章)を探していく。

第1章:第一の断絶 ——「神」を失ったメロディー

私たちが「美しいメロディー」と無意識に感じてきたものの源流には、何があったのか。 それは単なる「才能ある個人が作った心地よい音の並び」だったのだろうか。いや、違う。

西洋音楽史の根幹において、メロディーとは「機能」であり、「祈り」であった。

その頂点に立つのが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハである。 バッハの音楽、特に教会カンタータや受難曲は、「個人の芸術的表現」である以前に、「神の秩序」を音で体現し、「教会」という〈共通世界〉に集う人々が、共に神を賛美し、信仰を共有するための「儀式」そのものだった。 メロディーは「神」という絶対的な目的に奉仕し、「共同体(教会)」によって共有(合唱)されることで、その力を発揮していた。

この「宗教性(=魂の叫び)」は、クラシック音楽だけのものではない。 私たちが論じてきたポップスの源流、すなわちジャズやロックンロールの根底にも、「黒人ゴスペル」という形で、この「神との対話」が脈々と流れていた。

リトル・リチャードがキャリアの途中で宣教師になったこと、そしてエルヴィス・プレスリーが(ロックンロールではなく)ゴスペルの歌唱でグラミー賞を受賞している事実は、彼らの音楽の「メロディー」がいかに「魂の叫び(=祈り)」と不可分であったかを示している。

メロディーには「神」と「共同体」という、絶対的な「支え」と「目的」があったのだ。

この西洋音楽史における巨大な構造を、決定的に「断絶」させたのが、お客様のご指摘の通り、「ビートルズ」(と、それに続くイギリスのロック)だった。

ビートルズもまた、アメリカのロックンロールやR&B(黒人音楽)に強く影響されていた。 しかし、彼らはその音楽の“形式”は受け継いだが、その根底にあった「宗教的・土着的な文脈(ゴスペルの魂)」は(意識的か無意識的か)切り離した。

彼らのメロディーは、「神」のためではなく、「She loves you」という「個人の恋愛」のために機能した。「魂の救済」のためではなく、「個人の内面的な思索(『Strawberry Fields Forever』)」や「社会風刺」のために使われた。

これは、音楽が「教会(共同体)」という絶対的なアンカーから解放され、完全に「個人」のものとなった決定的瞬間(=脱宗教化)である。 「美しいメロディー」は、その背後にあった「神」という「大きな物語」の支えを失い、メロディーメーカー個人の才能だけで、その美しさを支えなければならなくなった。

これが、私たちが『アナ雪』で最後に目撃することになる「メロディーの喪失」の、最も深く、最も遠い「第一の原因」である。

第2章:第二の断絶 ——「専門化」という新しい“神”

第1章で論じたように、音楽はその根源にあった「神」と「教会共同体」という「絶対的な支え(=パトロン)」を失った。

では、その「絶対的な権威」を失った作曲家たちは、次に何を「神」とし、何を「支え」としたのか。 彼らは、「専門性」という「新しい神」を発明したのである。 〈共通世界〉が失われた後、彼らは「専門家」という「小さな共同体(タコツボ)」へと自ら進んでいった。

この現象は、第1章の「脱宗教化」の直後ではなく、時間差を置いて、クラシックとジャズの世界で(ポップスに先行して)発生した。

■ クラシック:「アカデミズム」という新しい神

19世紀のロマン派(ワーグナーなど)は、「神」の代わりに「神話」や「国家」をテーマにすることで、まだ大衆との「共通言語」を保っていた。 しかし、第二次世界大戦後(1950年代〜)、その「国家」すら(ナチスへの加担によって)信用できなくなった時、クラシックの作曲家たちは最後の砦へと逃げ込んだ。

それが「大学(アカデミズム)」という「新しいパトロン」である。 第1章で失った「教会」に代わり、「大学」が作曲家の生活を支えるようになった。

大学が作曲家に求めるのは、「神の栄光」でも「大衆の感動」でもない。 それは「学術的な革新性」「知的な複雑性」である。 その結果、クラシック音楽は(シェーンベルクの十二音技法や無調音楽に代表されるように)、「美しいメロディー」よりも「新しい理論」を優先する「専門家」の音楽へと自ら深化(=難解化)していった。

■ ジャズ:「芸術性(ビバップ)」という新しい神

ジャズもまた、1930年代までは「ダンス」という〈共通世界〉で機能していた。 しかし、第1章で述べた「ゴスペル(魂)」のルーツを持っていた黒人ミュージシャンたちは、「(白人のための)エンターテイナー」であることに飽き足らず、「芸術家」としての自尊心を求めた。

1940年代後半、彼らは「ビバップ革命」を起こす。 それは、「大衆が踊る」ためではなく、「演奏家仲間(専門家)」に「個人の技術」を誇示するための音楽だった。超高速のテンポ、複雑なコード進行、超絶技巧のアドリブ。 彼らは「ダンス(大衆性)」を捨て、「芸術性(専門性)」という「新しい神」を選んだ。その直後、ロックンロールに「大衆」の王座を明け渡し、ジャズは「専門家(タコツボ)」の音楽となった。

■ 「専門化」という名の断絶

クラシックもジャズも、ポップスに先駆けて「スタンダード・メロディー(共通言語)」を生み出す力を失った。 「神」という「絶対的な共同体」を失った音楽は、その代用品として「専門性」という「小さな共同体」を選んだ。 これが、〈共通世界〉からの「第二の断絶」である。

第3章:「宗教」に代わる「人工の儀式」——〈想像の共同体〉の形成

第1章で「神」を失い、第2章で音楽家たちは「専門性」へと向かった。 しかし、大衆(個人)は、支えとなる〈共通世界〉を失ったままである。

その「失われた宗教(=絶対的な共同体)」の巨大な空白を埋めるために、近代において発明された「世俗の神」――それが「国民国家」である。

ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」と呼んだように、この「国民」という新しい神は、「新聞」というメディアを通じて想像された。だが、その「想像」を、理屈ではなく「感情」で人々に刷り込み、結束させるため、国家は「宗教」に代わる「世俗的な儀式」を必要とした。

そこで「音楽」が、再び「共同体のためのツール」として(今度は「神」のためではなく「国家」のために)呼び戻されたのである。

■ 「人工の賛美歌」としての国歌・軍歌

「国歌」は、この「国民」という新しい神を称える「人工の賛美歌」である。「儀式」で斉唱することで、人々は「我々は一つの国民である」と感情的に確認する。 「軍歌」は、その「人工の神」を守るため、「異教徒(=敵)」と戦うための士気高揚のツールである。 これらはすべて、第1章で失われた「宗教的結束力」の、世俗的な「代用品」として設計された。

■ 「世俗のミサ」としての紅白・オリンピック

この「人工の儀式」は、有事(戦争)のためだけではない。平時においても、共同体を維持するために機能した。

  • 紅白歌合戦:「お茶の間」で世代を超えた文化を共有し、「国民」を再生産する、年に一度の「世俗のミサ」だった。
  • 平和の祭典(オリンピック・万博):1970年大阪万博の「世界の国からこんにちは」は、「戦後復興と未来への希望」という「世俗の物語」を「合唱」させる、完璧な「人工の賛美歌」だった。 1984年ロス五輪の「オリンピック・ファンファーレ」は、「国家」を超えた「世界の(平和的な)統合」という、さらに大きな「世俗の物語」を演出する儀式音楽だった。

『スリラー』も『タイタニック』も、そして『アナ雪』も、この「国民国家」や「グローバリズム」という「人工の〈共通世界〉」がまだかろうじて機能していた時代に咲いた、最後のアダ花だったと言える。

第4章:第三の断絶 ——「人工の神」の敗北

第1章で「神」を失い、第3章で「人工の神(=国民国家)」を発明した私たち。 しかし、「神」という絶対的な基盤を持たない、これらの「人工の儀式(紅白、オリンピック)」は、そもそも脆いものだった。

2010年代、この「人工の神」は、二つの力によって、ついに(そして決定的に)敗北した。

■ 敗因①:メロディーからビートへ(供給側)

音楽の目的が、ついに「神のため(第1章)」でも「国家のため(第3章)」でもなくなった。 ヒップホップやEDMの台頭により、音楽の目的は「個人の身体的快楽(ビート、グルーヴ)」へと最終的に着地した。 さらにTikTokが、音楽を「構成美」から「15秒の音の断片」へと解体した。 「人工の賛美歌(=共通のメロディー)」は、より即物的で強力な「個人の快楽」の前に、その存在意義を失った。

■ 敗因②:AI(アルゴリズム)という「新秩序」(需要側)

「人工の儀式」が機能するためには、「お茶の間(テレビ)」という〈共通広場〉が不可欠だった。 しかし、AI(アルゴリズム)は、その〈共通広場〉を破壊した。

AIは、「国民」という「マクロな共同体」よりも、「私」という「ミクロな個人」の快楽を最適化することを最優先する、新しい「秩序(あるいは神)」である。 AIは、私たちを「趣味」「世代」で完璧に分断し、「タコツボ」へと隔離した。

■ 「人工の儀式」の死

「お茶の間」を失い、「共通のメロディー」も失った「紅白歌合戦」は、もはや「国民」を統合する「世俗のミサ」たり得ない。 「知らない曲ばかり」の紅白は、「人工の神(=国民)」が「AI(=個人)」の前に敗北した姿そのものである。 「平和の祭典(オリンピック)」が、古いゲーム音楽(=特定のタコツボの寄せ集め)に頼らざるを得なかったのも、同じ理由である。

「神」を失い、次に「国民(人工の儀式)」も失った音楽は、ついに「個人(タコツボ)」へと漂着した。 これが〈共通世界〉からの「第三の、そして最終的な断絶」である。

第5章:「戦争」という皮肉 —— 最後の“神”の降臨

第4章で、音楽も社会も「個人(タコツボ)」へと完全に解体された。 AIという「個人の快楽」を司るシステムがすべてを支配している。 私たちは「平和」のうちに、バラバラになった。

だが、そのAIの支配を無効化し、バラバラになった「個」を、最も強烈かつ即効性をもって「我々(We)」という一つの主語へと強制的に引き戻す、最後の「超越的な力」が残されている。 それが「戦争」である。

「神」も「国民国家(平和の祭典)」も失い、AIによって分断された「個」を、再び「マクロな共同体」に束ねる最後の“神”の降臨。 これこそが、現代社会における最大の皮肉である。

「明確な敵」の出現は、「アルゴリズム(=個人の快楽)」よりも強力な「我々(=共同体)」というカテゴリーを強制的に起動させる。

今、ウクライナやロシア、ガザで起きていることは、第3章で論じた「軍歌・国歌」の伝統的役割の「現代版」である。 ロシアが「Zミュージック」で「上から」統合を強制し、ウクライナ市民が国歌や民謡で「下から」結束を確認する。 音楽は、平時には失われた「共同体統合」の力を、戦争という極限状態において(皮肉にも)取り戻すのである。

結論は、あまりにも恐ろしい。 私たちが「神」を失った(第1章)時、その最初の「代用品」は「国民国家(第3章)」だった。 そして今、その「国民国家」すら(平和のうちに)解体された(第4章)後、「共同体」を呼び戻すための最後の「代用品」として、「戦争」が浮上しているのだ。

終章:メロディーなき世界で

私たちは、「なぜ『アナ雪』が最後だったのか」という問いから、この長い旅を始めた。 議論の終着点にたどり着いた今、私たちはその答えを手にしてしまった。

「美しきメロディー」の喪失とは、音楽の才能が枯渇したことではない。 それは、私たちが「神(絶対的な共同体)」から始まり、「国民(人工の共同体)」を経て、ついに「平和」のうちに「共通の物語」を紡ぎ出す能力のすべてを失ったことの、文化的象徴だったのである。

私たちは今、岐路に立たされている。 アルゴリズムに身を委ね、「平和」なタコツボの中で、永遠に細分化され続ける道を選ぶのか。 それとも、失われた「共同体」を取り戻すために、「戦争」という最悪の「代用品」を(無意識にか、あるいは意図的にか)待望してしまうのか。

「メロディーが失われ、戦争だけが共同体を呼び戻す」 この恐るべき現実が、この議論の終着点である。

ここで、一つの注目すべき現象がある。 ストリーミングが全盛のこの時代に、「アナログレコード」や「カセットテープ」が静かな復活を遂げていることだ。

これは単なるノスタルジーではない。 本書が論じてきた「解体」に対する、最も文化的で、最も「平和」な抵抗の兆しと見ることはできないだろうか。

この現象の本質は、AIアルゴリズムが自動的に推薦する「BGM(音の断片)」の垂れ流しに対する「否」である。 それは、TikTokが破壊した「Aメロ→Bメロ→サビ」という「構成美(=メロディー)」への渇望であり、アーティストが意図した「アルバム」という作品世界を、A面1曲目から最後まで通して聴きたいという、「時間」と「体験」の奪還である。

この「ミクロな抵抗」が、すぐに「紅白」のような〈共通世界〉の再興に結びつくことはないだろう。 しかし、それはもしかすると、「AI(個人の快楽)」とも「戦争(暴力的な共同体)」とも異なる、第三の道を模索する試みではないか。

イヤホンを外し、あえて「針を落とす」という手間をかける。 それは、第1章で私たちが失った、音楽が「祈り」であり「魂」であった時代の、あの「重み」を(無意識に)取り戻そうとする行為かもしれない。

「戦争」という「最後の神」にすがるのではなく、「アナログレコードを聴く」という、極めて個人的で平和的な儀式のうちに、新しい〈共同性〉の種を見出す。 それこそが、この「合唱なき世界」で、私たちが「戦争」以外の方法で「我々」という主語を取り戻すための、ささやかだが最も重要な希望の始まりではないだろうか。


編集部より:この記事は島田裕巳氏のnote 2025年11月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は島田裕巳氏のnoteをご覧ください。