ぼくにとって、今年は「戦後批評の正嫡」になった1年だったけど、おかげでとても嬉しい與那覇潤論にもめぐり逢えた。まぁ、ふつうに考えてすごいニッチなテーマだよね(笑)。
もっともこれは一種の便乗で、正しくは佐々木大樹さんという方が福嶋亮大さんの新刊に寄せた書評に、オマケでぼくへの評価がけっこう長く出てくる。その冒頭は、こんな感じだ。
2025年は、こうした中間領域にこだわるいわば波打ち際派の著作がいっせいに揃った感がある。宇野常寛、東畑開人、與那覇潤、そして福嶋亮大の『メディアが人間である』がそれに該当するだろう。
(中 略)
與那覇の言説は或る意味で常に分裂している。歴史学者に対しては舌鋒鋭く「歴史なんかいらない!」と主張するその一方で、『平成史 昨日の世界のすべて』(文藝春秋、2021年)に代表されるような優れた歴史不在への批判を残しているからだ。
佐々木大樹氏、2025.10.23
(強調とリンクを付与)
混ぜてもらえたメンツも素敵だけど、ポイントは「中間領域にこだわる」だろう。何と何の “中間” を指すかは、人によりそれぞれだけど、これさえやればいいといった一辺倒主義に陥らない思考を、大事にする著者がいる。
これ “だけ” やればいい、主張し続ければいい、みたいな発想は、マーケットでウケる。『これだけで痩せる!』と銘打つダイエット本が、多様な視点で「健康とはなにか?」を問う人文書より売れるのは、あたりまえだ。
でも「〇〇を抜くだけで痩せる!」をやり続けたら、摂食障害のリスクがあるように、思考の単純化を促すしかたで言論や思想をバラまくことに慣れると、社会の全体が重篤な副作用に陥る。
さっきの佐々木氏の評価でとくに嬉しかったのは、書いた本人が忘れかけてた昔の文章に触れて(苦笑)、ぼくのそうしたこだわりの “一貫性” を明らかにしてくれた箇所だった。
その稀有な面白さによって再読されるべき対談集『史論の復権』(新潮新書、2013年)では、「私はいまの日本社会が抱える問題の多くは『中間的なもの』の衰退ということに尽きていると思います」と「まえがき」のなかでしるしていた。
「私にはそれは、人々の歴史に対する感覚の衰弱と、表裏一体のもののように見えたのです」。同書のねらいを與那覇は「つねに完成への途上、なにかの『中間』にある場所としての、歴史の姿を示すこと」だとまとめている。
佐々木氏、同上
(頁数を略し、改行を追加)
歴史が “中間” を強化する、というのは、少しわかりにくいかもしれない。なんせ、大挙してむしろ「極論」の方に振り切れた挙句、反省もせずダンマリな歴史学者ぞろいの昨今だし(失笑)。
が、たとえば、こう考えてみるのはどうだろう。
ぼく自身も少し関わったが、テロや大量殺人が起きた後はよく、事件に至るまでの “歴史” を辿る本が出る。もちろん出版しても、犠牲者は帰ってこない。では、なんのために、そんなことをぼくらの社会はするのか。
凶行を “肯定” するためでは、まったくない。しかし犯人に罵声を浴びせ “否定” するだけでは、問題が解決しないことを、ぼくらは直観的に知っている。一辺倒主義で警察力をひたすら増強し、再発を防ごうとしても、無限には増やせない。
むろん過去を調べて語ったところで、それがすぐに対策になりはしない。だがトラウマになりそうなつらい記憶が “歴史化” されるとき、人は初めて、適切な距離感でそれを扱えるようになる。
適切さとは、健康を損ねずに困難な体験を語り、他の人と分かちあえる関係に入ることとも言える。個人のトラウマに限らず、国際政治でも同じなことは、歴史なきセンモンカが扱いをまちがえた直近の戦争で、もはや誰の目にも明らかだ。
佐々木氏が「中間領域にこだわる」人として並べてくれた、宇野常寛さんとの久しぶりの対談が、12/2からYouTubeに上がっている。無料部分が45分ほどで、サブスクに入るともう1時間が追加される、充実の動画になった。
宇野さんが早速公開してくれたnoteで、鍵となる論点も、まさに “歴史化” の効能だ。いわく――
與那覇さんが、戦後民主主義は「ワクチン」のようなものだという(うまい例えだ)。要するに近代化の不十分な「12歳の少年」である日本が昭和初期のような決定的な間違いを犯さないようにするためのもの、それが戦後民主主義というワクチンだ。
(中 略)
1945年以前の「歴史」はもはや作用しない。少なくともかつてのようにーー親や祖父母が戦争を体験していた時代のようにーーは機能しない。しかし歴史化された近過去の記憶だけが支えられるものがある(特に、今日のように流動性の高い社会においては)ので、それを再構築すべきというメッセージが近年の與那覇さんの仕事の中核にあるように僕は思う
宇野常寛氏、12.3
歴史というワクチン抜きで、いまの世界に立ち向かうのは、ステイホームのしすぎで免疫がゼロになった状態で、ウィルスがウヨウヨの街頭に出るようなものだ。運がよければ無病息災のままかもだが、大概はそうならず、いきなり劇症化する。
まさしく中間がないというか、ちょっと鼻がぐずるけど、まぁいっか、くらいの距離感で現実の不都合とつきあうことのできない人が、増えている。感染したら “即重病” だとビビっている分、彼らの叫ぶ憤懣は、過激になる。
2020年には文字どおり「ゼロコロナを!」だったのが、22年から比喩としての「ゼロロシアを!」になり、25年のいまや「ゼロ中国を!」になってしまった。きっかけが誰の失言かとか、そんなことはどうでもいいわけだ。
もちろんゼロコロナもゼロロシアも実現しないように、彼らが望む世界は来ない。だが逆に言うと、そんな夢想を煽れば永遠に稼げるので、ちゃっかりゼロ中国に “鞍替え” し、ウクライナを焚きつけたように自国の政府も煽るセンモンカの発生が、懸念されている。
そんな時代に、もういちど効くワクチンになれるものは、なんだろう。
もともと宇野さんと作った『平成史』や、今年出した『江藤淳と加藤典洋』を自由に往還しつつ、右にも左にも忖度しない “中間” の場所で、アイデアを出しあいじっくり考えている。ぜひ、多くの人が目にしてほしい。
参考記事:
(ヘッダーはワクチン以上に、敗戦後の防疫を象徴するDDT散布。後に毒性が判明するも、当時は不可欠だったと評価されている。共同通信より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年12月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。