年内最後の『Wedge』連載「あの熱狂の果てに」で、いまなお続く “初の女性首相” をめぐる熱狂について考えている。日本と対比するのは、もちろんイギリスの有名なあの人だ。
高市早苗首相がかつて “目標” に掲げたこともあって、日本はおろか海外のメディアまでサッチャーと比較する昨今だが、そもそもみんな勘違いをし過ぎだ。若い人とかたぶん、サッチャーがいつの人かも、実感がないだろう。
就任を祝福する報道では、高市氏がマーガレット・サッチャーに憧れてきたとの挿話がよく流れた。しかし、彼女の最初の選挙は1992年の参院選(奈良選挙区、落選)で、サッチャーは90年11月まで現職の英国首相だった。
当時、主要国の指導者で女性はサッチャーだけだから、めざす目標に彼女の名を挙げるのはふつうのことで、高市氏の個性をとくに物語りはしない。
『Wedge』2026年1月号、9頁
(強調を付与)
たとえば2008年のオバマ当選の後には、意識の高い人は誰もが “オバマみたく政治を変えたい” と言っていた。そこで「お前、黒人じゃないじゃん?」とツッコンでも意味がないように、高市氏の旧言をベタに受けても、得るものはあまりない。
なによりぼくたちはそもそも、サッチャーのことをよく知らない。”弱者切り捨て” の同義語である新自由主義の元祖という、怖いオバサンのイメージしかないが、それはどこまで本当だろうか。
『Wedge』では2018年に出て山本七平賞を受けた、冨田浩司氏の著名なサッチャー論を参照した。たとえば同書は、保守党の指導者としては例外的に “ふつうの” 出自だった彼女が、抱いていた仲間意識をこう描写する。
彼女にとって「我々の側の人たち」とは保守党の支持層一般ではなく、「額に汗をし、勤労に励む人々」、階級的には下層中流階級から上層労働階級に属する人々を意味し、労働党の伝統的支持者を数多く含む。
(中 略)
1980年の住宅法は公共住宅に3年以上居住する賃借人に対して、居住期間に応じて市場価格の3分の2以下で当該住宅を購入する権利を与えるもので、サッチャーの言う「我々の側の人たち」から大歓迎を受ける。
新潮選書、151-2頁
(算用数字に改定)
結局、1979年に発足した彼女の政権下で120万戸の公共住宅が売却(私有化)され、持ち家率は50%から70%に上がったという。その意味でサッチャーの新自由主義は、意外に “金持ち優遇” ではなく “庶民の味方” だった。
この点は生誕100年の今年出た、より新しい研究でも同様で、池本大輔氏の『サッチャー』にも、
ネオ・リベラリズムの経済学者たちは、福祉国家、とりわけ全費用が公費で負担される国民保健サービスの徹底的な再編を優先課題と見ていた。
しかしサッチャー政権は、労働組合との対決やマクロ経済政策の変化を正当化するためにネオ・リベラリズムを用いる一方、中産階級からの反発を招きかねない福祉国家の抜本的な改革に乗り出すことはなかった。
中公新書、48頁
(段落を改変)
と、明記されている。
ではサッチャーはむしろ “いい人” で、新自由主義の罪悪のように言われた諸々こそ、幻にすぎないのか。世の中はそう単純ではない。”罪悪” は実在したが、それは別のところにあったのだ。
戦後の英国では労働党もたびたび政権を担い、その度に産業の国営化を進め、一時は旅行代理店まで国営になった。政治を通じて “国ぐるみ” で取り組んで初めて、個人の生活の向上もまたありえるとする熱気がそこにあった。
直訳は「社会主義者の政権」
「鉄の女」のカードで無効にできます。
詳しくはこちらを
全産業を “公務員化” して経営がうまくいくはずはないので、サッチャリズムによる民営化は不可避だったが、公営住宅を「買って自分の家にしちゃえば?」のように、それは幸せの享受まで “個人化” することでもあった。
で、どうなったか。
政策の内容が〔市場経済を是とする方向に〕収斂するにつれ、各党はそれを実施するための実務能力を競うようになる。その結果生まれたのが、一種の「専門家信仰」であり、政治家が政策実施のプロセスから距離を置いた方が公正で、効率的な政策運営に資するという考え方である。
(中 略)
有権者は自らの政治的意思を表明する意欲を減退させる。彼らと政党をつないでいた階級的な紐帯が弱まったこともこの傾向に拍車をかける。さらに、政策運営が政治家の手を離れ、「専門家」に委ねられるようになると、当然のことながら「選挙によって選ばれた政府」の存在意義は不明確なものとなる。
冨田著、278・280頁
(概念の英語表記を省略)
“自分だけ” がトクをすればいい、同じ階級の仲間なんて気にするな、と囁くサッチャーの改革は、政治家もまた「俺たちの代表」ではなくしてしまった。そこに潜り込んだのが、選挙すら経ず勝手に自分こそ、国益を代表するかのようにペラペラ喋るセンモンカだったのだ。
想定外の成功を見た金融の自由化とも相まって、サッチャー流の「持ち家政策」は英国の経済を不動産バブルに依存させた。1969年から今日までに、消費者物価が14倍となったのに対し、不動産の平均価格は77倍となる(池本著、297頁)。
“自分のモノ” になった自宅に引きこもり、階級どころか隣人すら気にかけず、TVに映るセンモンカを信奉し「政治家は黙って従え!」と叫んで憂さを晴らす(世界中の)コロナ禍のヒトビトは、この意味でサッチャーの子どもたちだった。
サッチャーの時代にはもちろん、SNSはない。不幸にも日本のサッチャー(?)が統治するいまは、在るおかげで、サッチャリズムはどんな社会を後世に残したか、毎日まじまじと観察できる。
オンラインでバズりたければ、人気の総理には乗っかる一択だろう。つまりは国益まで “個人化” するわけで、食い込めそうな政治家には「見て見て!」とばかりに発信中と思しきセンモンカの姿に、みんな食傷ぎみである。
2025.11.1
(赤線は引用者)
ちなみに石破氏に対してはこちら
もう50年近く前の英国で、”初の女性首相” が新自由主義とともに扉を開けた、そんな下品な社会。ぼくらが保つべき態度、あるべき政治に関する発信の姿勢とは、いかなるものか。
『Wedge』のコラムの末尾は、こう結んだ。書店はもちろん、東海道新幹線のグリーン席なら無料でついてくるから、年末の帰省時に多くの人の目に触れて、考えるきっかけになるなら嬉しい。
英国の寒い冬のようにグルーミー(陰鬱)な世界では、……「わからなさ」とつきあい、安易な答えを口にせず、耐える勇気も必要だ。それもまた政治の叡智であることを、最後は孤独に退陣した「女性首相の先駆者」は、後を行く国に伝えている。
前掲『Wedge』1月号、10頁
(強調箇所も原文のママ)
参考記事:
(ヘッダーは1979年、政権獲得時のサッチャー。功罪を統計で論じる英紙Independentの記事より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年12月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。