年末の風物詩といえば募金。赤い羽根共同募金とか歳末助け合い募金、NHK歳末たすけあいなどが知られていると思います。が、募金する人はなんとなく良いことをしているような気がするけれど実際にそのお金がどのように使われているかを知るチャンスはあまりありません。小額なら気にもならず、なんとなく良いことをしたぐらいのスーッとした気持ちになるのでしょう。
では震災など巨大災害が起きた時の募金はどうでしょうか?確かに募金で集めたお金はその災害被害の対策に使われると思いますが、実際にはどういう流れで自分のお金がどこに行ったのか知ることはなかなか難しいものです。また募金の種類によっては事務経費がかかるところがあり、2割ぐらいのお金が人件費や事務費用で使われ、1万円寄付したのに実際には8000円しか相手に流れないこともあります。よって最近では募金の際に「直接全額〇〇に寄付されます」と謳っていることもあります。
もう少しレベルアップしてくると社会貢献があります。これは何かあった時の募金ではなく、恒常的にある目的意識を持って資金を注入したり労力をかける行為です。英語でフィランソロピー(Philanthropy) と称するものです。日本ではどちらかといえば天災など何かあった時に寄付がどっと集まる傾向がありますが、北米では定常的な寄付が社会全般に広く浸透しているので誰でも気になることへ金銭的社会貢献はしやすく、多くは一定額の税控除の対象になります。これがいわゆる富裕者層になると巨額の寄付をすることがよく知られています。
ビルゲイツ、ウォレンバフェット、ジョージソロス、ビルクリントン…彼らは巨額の寄付をしていますが、基本的な考え方は社会循環であります。富裕者層はその所有資産の多さから、時として激しい批判にさらされますが、彼らは何らかの形で社会貢献していることが多く、その資金が社会に循環し、様々な社会活動に利用できるようになっています。
ダイエットコークを飲みながらビル・ゲイツ氏とカードゲームに興じるバフェット氏
ただ、彼らが出す寄付の額は巨額であり、使い方次第では逆に批判される種にもなりかねません。事実、それらはフィランソロキャピタリズム(Philanthrocapitalism)と称し、その資金の出し手はフィランソロピストと称され、社会一般ではあまり受けは良くないのです。ただ私から見れば慈善活動の進化形の過程にあると考えています。つまり批判する人はフィランソロピストは名声を気にして、その資金供与の社会的責任を負わないなどと声をあげるのですが、それはこれから皆が考えていくべき課題であると思います。
ビルゲイツ氏やメタのザッカーバーグ氏らの考え方の中には、自分が死ぬまでに使い切れない資産を抱えている中で、死んだ後に無駄に巨額資産を子孫に相続するのではなく、大半は社会に還元し、自分には自分の余生が困らない程度に過ごせるだけ残せばよいという考え方があります。これにはひどく同情し、また賛同したいのであります。
私も今年、カナダ連邦政府から教育財団運営の認可をもらったのでその活動が来年から本格化します。といってもまだ資金ゼロであり、来年から機能化させます。私はここにある実験を組み込んでいます。「無限もやし」とか「無限がちゃ」といった言葉がありますよね。この「無限」の仕組みを取り込むのです。
まず寄付をする私の利潤追求会社では通常の業務以外に資金運用をしています。このブログでよく話題にするように北米の株式市場や資本市場で運用しています。運用者は私です。その運用益は毎年増えこそすれど、減ることはありません。配当収益と利息収入が多いのですが、一定額をデリバティブを組み込んだものに投資をしています。もちろんキャピタルゲインもありますが、それはおまけ。その運用益から一定額を財団に毎年寄付します。財団は受け取った資金を基金として同様に運用します。こちらの法律で基金の4-5%は毎年、実際に寄付が求められるのでそれを実行しますが、4-5年目以降は基本財産である基金が毎年の寄付資金流入と運用益で雪だるま式に膨れ上がるのです。
実際に財団が寄付を行うのは財団の運用益内で留めることで基本財産の基金に手を付けることなく、毎年増える結果になり、寄付可能額が毎年増える仕組みなのです。これが私の計画する「無限寄付」であります。まぁ、これも考え方としてはいろいろ言われるのでしょう。
ただ、ここで述べたのはあくまでも財団の財政の話であり実際に私がフォーカスしているのは何にどうお金が使われるのか、であります。現在、あるカナダの大学と具体的な話がまとまりつつあり、来年からそこに資金を継続的に提供する予定ですが、そのお金が何にどう使われるのか私なりに把握しています。
私は万能者ではありません。小さな個人事業主の上に、私自身、あらゆる方面の仕事をしているため、財団運営の細かい話などもできないのです。ただ財団が健全な形になるには私の資金運用能力が問われます。いかに安定的に運用益を得るか、これが私に求められる期待と使命だと思っています。また、誰にどんな形で使われ、それが喜ばれるのか、成果はあるのか、というところは把握したいわけですが、自分の財団だからそれが可能になるのです。
ひろの壮大な実験の一つだと思っていただければ結構です。もしも5年か10年たってこの仕組みがワークするなら日本でもカナダでもいろいろな人が展開したらよいでしょう。
くれぐれも私が一番重要だと思っていることは寄付したお金が生かされてほしいということです。もらう側は時として「タダだから」という「フリーマネーただ乗り論」となる場合もよく耳にします。せっかく出すのだからありがたいと思ってもらえるようなそんな仕組みを作るのが私のこれからの仕事かもしれません。
慈善活動は進化するものなのです。そして往々にしてそれは異形のところからスタートし、怨嗟も含め、必ずしも良く思われないこともあり、社会のいびつさを感じることもありますが、そんなことを気にしていたら何もできないので私はあえてスタートする前にプランをご披露させていただきました。誰だってある程度の年齢になったら社会還元したいと思うことがあると思います。その表現の一環だと思っていただければ嬉しいです。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2025年12月28日の記事より転載させていただきました。