いまや思い返すのも難しいが、今年が始まったとき、アメリカの大統領はバイデンだった。後に副大統領にすら老衰ぶりを貶される彼の下で、「ウクライナを勝たせる」という不可能な試みへの投資が、だらだらと続いていた。
政権がトランプ(第2次)に替わるのは、1/20である。直前まで、日本のセンモンカは彼をコントロールして「バイデンと同じ路線を採らせることができる」と、真顔で語っていた。当時の文字起こしに基づき、実証しよう。
東野篤子氏(ニッポン放送で)
「トランプさんに対するインプット、……『こういう解決法しかないですよ』ってこと、一生懸命叩き込んでいかないといけないですし、叩き込み甲斐はあるんだろうと思うんですよね。
(中 略)
だから変えていくっていう、トランプをいかに変えていくかっていうことをもう少し意識した方がいいのかなと思うんです」
放送日は2025.1.9
こうした専門知がただの誇大妄想、いわば専門痴(センモンチ)にすぎなかったことは、2/28のホワイトハウスからの配信で、全世界に晒される。それを受けて、私は当時こう書いた。
ホワイトハウスから叩き出されたのは、ゼレンスキーのみではない。
ウクライナの主張であればすべてを肯定的に扱い、「疑問を寄せるだけでも許さない!」とばかりにTVやSNSで振るまってきた、日本のウクライナ応援団もまた、米国の正副大統領に「公開処刑」されたのだ。
拙note、2025.3.2
(改行を追加)
そして2025年、公平に言って信用を失い凋落したのは、ウクライナの専門家だけではなかった。20年のコロナ禍から始まった、センモンカを “名乗る” だけでウハウハな時代がいよいよ閉じられた1年を、noteでふり返りたい。
自然・社会科学も、人文学も崩壊
冒頭から続けて、起きた月順にいってみよう。
4/16に英国の最高裁が全員一致で、生物学的な女性とトランス女性は「異なる」と評決する。ここ数年、 #トランス女性は女性です とSNSで喚き続けたトランスジェンダー問題のセンモンカの主張は、公的に否定された(笑)。
5/26には、1980年に南海トラフ地震の予測モデルを提唱した専門家が、初めて公の場で誤りの可能性を認めた。客観的とされる自然科学の、半世紀近くメディアで定説だった知見ですら、そうしたことは常に起きうる。
6/25に、2020年春のコロナ禍初期に採られた「接触8割削減」の無根拠さを立証する学術書が出る。当事者も8/26の有料記事で、実質的に指摘を認め、むしろ「あの対策は自分のせいじゃなかった」と言い始めた(苦笑)。
遡って6/11には、専門家の立場から「政府に物申す」と自称してきた、日本学術会議の法人化が決まる。20年の秋には英雄のように扱われた学者が国会前で座り込むも、足を止める人は乏しく冷ややかにスルーされた(失笑)。
どのくらいシカトされたかというと、7/20の参院選に向けて “極右台頭” への不安が高まった際、メディアが報じた「守るべき憲法上の自由」に、学問の自由は入れてもらえなかった(涙笑)。もはやサヨウナラ状態である。
ダメを押したのは、9/29に出た著名な虚偽告発事件での有罪判決だ。学術会議問題で知性の代表を気どった科学史の専門家は、判決で反証されてもなお自説の誤りを修正せず、クズ人間の典型として広く罵声を浴びた(怒笑)。
社会の「役に立つ」と称する分野がどれもダメになっていた11/27からは、むしろ「役に立たない」分野でビジネスできるのがイイんすよと誇る、”令和人文主義” の識者が大炎上を起こした。自称だったはずの呼び名が、いまや蔑称である。
私自身も12/19に、自分に不利な資料を削除させて「自身の不祥事の隠蔽」を謀る歴史学者たちの背信ぶりを公表し、人文学のあり方に問題を提起した。想像以上の反響と共感をいただき、驚くとともに感謝している。
返す返すも、輝かしい1年だった。実は、起きたことは他にもある。
もう「被害者ぶりっ子」は通じない
このnoteの読者はご存じのとおり、犯したまちがいが批判を集めるようになっても、言葉が過ぎた相手に名誉毀損の訴訟をしかけ、「誹謗中傷の専門家」に転職してメディアにしがみつく人は多い。
要は「私は被害者!」と叫んでアテンションさえ集めれば、自分のあら探しはやめてもらえるだろうと当て込むわけだが、その終わりがはっきりしたのも、2025年だった。2月の時点で私は、それを予測し警鐘を鳴らしている。
2021年春のオープンレター騒動の頃からSNSを騒がせてきた、「誹謗中傷の季節」が終わりを迎えつつある。とはいえ、ネットの誹謗中傷がなくなったり、減ったりしたわけではない。
まともな批判に「中傷だ!」と言い張って責任逃れをする人や、自分の加害行為には頬かむりして、被害を受けた時だけ「中傷された!」と喧伝する人が増えすぎて、「誹謗中傷!」と叫んでも以前のような共感を集めなくなった。よいか悪いかはともかく、そんな事態が進んでいる。
拙note、2025.2.17
(強調を追加)
フェアに言って事態は、私の予想をも超えて進んだ。すでに同月、かつては批判することなど “あってはならない” レベルの扱いだった、あまりに著名な性被害者の信用が失われ始める。
加速のギアを入れたのは、8月の甲子園の際に露呈した強豪野球部の暴力問題だった。十分な対応を取ってこなかった高野連が、あたかも問題への批判自体が「誹謗中傷」だと言わんばかりの公式声明を出し、逆に炎上する。
2025.8.6
(赤線は引用者)
さらなるスイッチは、9月に始まった自民党総裁選だ。他の候補への中傷を含む「ステマ」が判明して辞任した広報担当が、自分への批判こそが中傷であり “耐えかねて辞める” かのような姿勢を示して、炎上に輪をかける。
2025.9.27
問題を大きくしたのは、当の広報がデジタル大臣の経験者でもあったことだ。で、中傷と呼び換えて批判を封じる相手には、むしろ “もっと” 批判を浴びせる空気がネットに定着する。
2025.9.28
「消し込み」の意味はこちらを
そして11月には、かつて “神聖不可侵” の扱いだった性被害者が、ついに「カルト」の語を使って報じられ始める。
東京新聞は11月26日付夕刊のコラム「大波小波」の中で、「伊藤〔詩織〕氏を特別な性被害者として神聖化し、告発のためなら多少の人権侵害には目を瞑ってもいいとして擁護する人々も存在する」と指摘。
「自分が応援する人や仲間をやみくもに庇い、間違いがあっても見過ごし、批判する人たちを攻撃する仕草は、このところさまざまな場所で見られる危うい現象だ」「カルト的な権威者を作り出すべきではない」と厳しく批判している。
小川たまか氏、2025.12.11
(強調は引用者)
まさに私自身が、類似のそうした「カルト」との戦いの先駆者である。その意味でも実に、報われる1年だった。
26年、いよいよ「人民裁判」開廷か
私がカルト化する「専門家」の問題を採り上げたのは、まだコロナ禍が現在進行形だった時期である。2021年7月の対談で、すでに
本当の意味での科学的な精神は消え去り、むしろ「科学教」という看板を掲げた事実上の宗教が生まれているような気さえします。
と、明快に述べている。
そこから4年経って、嬉しいことに “本当に” 進んだメディアは、まったく同じ言葉遣いをするようになった。以下のnoteに教えてもらったのだが、今年の7/28に英紙Financial Timesは、
米国のリベラル派の不寛容さは新型コロナ禍で際立った。ワクチン接種に反対する保守派がリベラル派以上におかしかったことは言い訳にならない。
(中 略)
リベラル派は「科学に従え」と主張したが、科学への信仰と混同していた。科学とは試行錯誤の過程であり、異論に耳を傾ける余地があってこそ成り立つ。
日本経済新聞(転載・有料)、2025.8.1
と、書いている。センモンカどうしの「庇いあいカルト」は解体され、罪を裁かれなければならない。そのことはこのnoteでも、2024年3月の記事以来、繰り返し述べてきた。
しかし、当時から現在までの20か月強のあいだにも、正しくない判断を下した者がいる。理由が無知か、怯懦か、はたまた強欲や悪徳なのかは知らないが、なんせ2024年7月の時点でも
① 専門家が予想を外して権威を失い、メディアの信頼を損なうなどという現象は、與那覇が言っているだけで、世間では起きていない。
② コロナもウクライナも、もう「今はホットイシューではないので」、そんな検証は載せてもバズらない。
との旨をぬけぬけと記し、「お前なんてもう売れてないから、批判を書かせてほしいなら、バズったチャラいライターのマネでもすればぁ?」と、侮辱を重ねる業界人さえいたのだ。
一昨日、つまり2025年のクリスマスに、かねて予告している次回作『専門家から遠く離れて(仮)』の聞き書きを終えてきた。完成稿になるのはまだ先だが、なにせ日取りが日取りだけに、気分が変わったところもある。
上記の人物を典型として、この問題でこちらから “出禁” にした人や媒体は、いくつもある。聞き書きの仕上がりを待つ2026年1月の月内を、寛容さにチャンスを与える、最後の期間にしたい。
その間に連絡があった場合のみ、”和平交渉” を行うことは可能だ。むろん興味がないなら、無視すればいい。来るべき人民裁判で「被告席と証人席」のどちらに座るか、選ぶのは本人である。
参考までに、今月届いた『群像』1月号で始まった高木徹氏の連載から、一節を引いておこう。
著者は元NHKプロデューサーで、1990年代のユーゴスラビア内戦がいかに、国際報道の過程で “演出” されたかを描くルポ『戦争広告代理店』で広く知られる。センモンカならぬ、そんなプロ中のプロが、いま、こう書く。
いま「認知戦」や「ナラティブ」といった用語が日本で脚光を浴びている。たいていは「中露の情報戦に気をつけろ」という文脈で語られる。それはたしかにあるだろう。
だが、例えばゼレンスキー大統領の発信は「ナラティブ」ではないのか? 欧米の首脳やメディアに現れる言説は「認知戦」ではないのか? そもそも「認知戦に気をつけろ」と言うこと自体が認知戦ではないのか?
『群像』2026年1月号、95頁
久しぶりに、続きが楽しみな連載ができた。なにせ私自身が2024年11月に、こう書いている。
センモンカが解説するウクライナ戦争は、「ほんとうの戦争」とは別に関係がない。
本人にも、また視聴者やフォロワーにも区別不能になった「戦争の幻想」と戯れ、「堕落したシミュレーション」の中でごっこ遊びをしているだけだから、ちょこっとミスプレイをしたくらいでは、訂正も反省もする気はない。
拙note、2024.11.5
訂正し反省する人が出るのかを、年明け後の最初のひと月は待ってみたい(候補となる人には、このnoteもメールで送る)。願わくばそこから、ほんとうの意味での知性や、学問や、専門性が甦えるさまを見たいものだ。
いまや「ウクライナ応援団」として揶揄されるセンモンカたちの世界では、毎年末にお決まりのあいさつがあるらしい。もちろん私も、ウクライナを応援するひとりとして、ぜひ唱和に加わろう。
Say it again,
Happy, and Victorious New Year!
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年12月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。