ナラティブ(narrative)という言葉を最近、耳にする機会が増えてきたように感じる。人工知能(AI)によると、ナラティブは、情報を伝えるだけでなく、人々の心に響き、行動を促す力を持つ物語の力を現代社会で活用する概念という。客観的な事実を羅列したストーリーとは違い、ナラティブは主観的な意味や感情、価値観が加わったもので、「物語をどのように語るか」に焦点が置かれている。
トランプ米大統領と会合したウクライナのゼレンスキー大統領、2025年12月29日、ウクライナ大統領府公式サイトから
EXTREMESCIENCE(過激な科学)というタイトルの科学関連情報を発信する動画「PIVOT」で脳科学者の茂木健一郎氏は「ナラティブは現在、軍事力以上に大きな影響がある」という趣旨の話をしていた。非常に興味深い指摘だ。社会学学者が「社会の活性化には失った神話の復権が必要だ」と主張していたことを思い出したが、ここにきて「神話」に代わって「ナラティブ」が拡散してきたわけだ。
ここでは当方が過去フォローしてきた取材対象圏から代表的な2つのナラティブを紹介する。
①ロシアのプーチン大統領のナラティブ
ロシアの最高指導者プーチン大統領は2023年5月9日、モスクワの赤の広場で開かれた第78回対独戦勝記念日の演説で、「わが国は犠牲国だ。西側がわが国を脅かしたからだ。国民は結束して祖国を守らなければならない」と檄を飛ばした。クレムリンの前に集まった8000人余りの軍関係者を前に、プーチン氏は自信をもってそのように語った。事実はロシア軍がウクライナに侵攻したのだ。プーチン氏の発言を聞いた西側メディアは、「プーチン氏のパラレルワールド(並行世界)」と呼んでいたほどだ。
プーチン氏は自身が生み出したナラティブの世界に生きている。ウクライナはロシアに帰属すると考え、キーウの解放こそが神の御心と信じている。プーチンはクレムリン前にキーウ大公の聖ウラジーミルの記念碑を建てた。聖ウラジーミルはロシアをキリスト教化した人物だ。プーチン氏は自身を聖ウラジーミルの転生(生まれ変わり)と思っている節がある(「プーチン氏は聖ウラジーミルの転生?」2022年3月28日)。
プーチン氏のナラティブを支えているロシア正教会の最高指導者、モスクワ総主教のキリル1世はロシア軍のウクライナ侵攻について、「ウクライナに対するロシアの戦争は西洋の悪に対する善の形而上学的闘争だ」と強調し、ウクライナ戦争は「善」と「悪」の価値観の戦いだから、敗北は許されないという。キリル1世はプーチン氏の主導のもと、西側社会の退廃文化を壊滅させなければならないというのだ。
フランス生まれのロシア系の歴史学者ミシェル・エルチャニノフ氏は、「通常の戦争の場合、相手と交渉し、時には譲歩することで刀を鞘に納めることができるが、『形而上学的闘争』(価値観の戦い)の場合、相手とは交渉(譲歩や妥協)できない。勝利するか敗北するかの戦いとなる」と指摘している。自身のナラティブの世界に生きるプーチン氏との和平交渉が難しいのは、ウクライナ側を含む西側のスタンスとプーチン氏のそれが全く異なっているからだ。ある意味で当然だ。
プーチン氏はKGB出身であり、プロパガンダの重要性を誰よりも知っている。そのプロパガンダを支えるためにナラティブが不可欠であることも分かっているはずだ。プーチン氏の物語は神話的ナラティブというべきかもしれない。
②安倍晋三元首相暗殺事件の山上徹也被告の生い立ちに関するナラティブ
ナラティブが大きな影響力を有しているのは政治の世界だけではない。日本では世界平和統一家庭連合(家庭連合、旧統一教会)の公判が奈良地裁で開かれ、山上被告は無期懲役となったばかりだ。元首相が暗殺された事件だったこともあってメディアだけではなく、国民も大きな関心を示してきた。
読売新聞電子版は11月25日、「山上徹也被告の生い立ちは…安倍晋三元首相銃撃事件の被告父と兄の死、母の入信で教団への恨み募らせ」という見出しを付け、被告の生い立ちを詳細に報道している。
元武蔵野女子大学教授の杉原誠四郎氏は、29日付の世界日報社とのインタビューの中で、「文科省が家庭連合の解散命令請求を行う原因となった不法行為についてだが、文科省が解散事由とした被害報告にある『被害』は、被害者と名乗る者による被害申告にすぎず、教団側の不法行為が法的に確定したものではない」と述べ、問題点を明確に指摘している。
また、文科省が作成した被害者の陳述書には虚偽の陳述が多数含まれていたなど、多くの問題点が浮かび上がってきたが、裁判では山上被告の生い立ちや事件発生直後の供述が独り歩きしていった。公判が開始される頃には山上被告を巡るナラティブは真偽解明をぼかす最大の障害となっていった。
事件発生直後から左派メディアの関心は安倍元首相暗殺事件の全容解明ではなく、もっぱら旧統一教会に関わる山上被告の生い立ちに注がれた。その物語の前に、捜査段階の不祥事や法の拡大解釈といった諸問題は脇におかれ、焦点が外されていったわけだ。
ただし、山上被告の生い立ちのナラティブは被告自身が拡散したというより、左派メディアや共産党系弁護士団体が意図的に広げていったものだ。そのナラティブに心が動かされた国民の中には元首相暗殺者の山上被告に救援金を送ったというニュースが報告されている。
21世紀の現在、メディアの世界では様々な陰謀説やフェイク情報が囁かれているが、人々の心を揺さぶるナラティブ(物語)は、時には法の枠組みすら超え、周囲に大きな影響を及ぼすだけに、警戒が必要だ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年12月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。