先日、X(旧Twitter)で武満徹の言葉(1974年)として紹介されていた、ある一節が目に留まった。
「考えてみると著作権などという観念は進んだようでいながらかえって野蛮なものであるように思える。人間が考えたり創りだすことは、個人にとどまらずに多くのひとによってそれは利用されたほうが良い。芸術はもともと法的に保護される必要のない唯一のものではなかったか」
正確な出典や文言の細部は詳らかではないが、その思想は武満の音楽観と深く共鳴しているように思える。どうやら実際に、このような趣旨のことは言っていたらしい。
実は私も以前から、著作権には疑問を持っていた。著作権は境界が曖昧で、運用が恣意的。適切な形がわからない。いや、そもそも、本当に必要な概念なのだろうか、と。
本稿ではその疑問にどこまで踏み込めるか。いっそのこと著作権を廃止してみたらどうなるのか、を探る思考実験的論考である。
1. 所有という幻想と「改良」の喪失
そもそも、物理的な物体とアイデアとを同列に扱い、「所有権」を主張することは構造的な無理がある。他人のリンゴを奪えば、元の持ち主のリンゴは失われる。これを経済学では「競合性」と呼んでいる。しかし、アイデアやメロディは、他人が模倣したところで元の持ち主から消え失せるわけではない。「非競合性」を持つ財産を、無理やり物理的な財産と同様に排他的に扱おうとする点には疑念がある。
わかりやすい例として、ビートルズの『Yesterday』を挙げてみよう。メロディは至高だが、歌詞に関しては、必ずしもあれが人類にとっての絶対的な到達点(ベスト)であるとは限らない。「もっと良い歌詞」が存在する可能性は、論理的に残されている。
仮に、誰かが歌詞の一部を書き換えることで、原曲とは異なる、しかし同等かそれ以上に感動的な作品を生み出したとしよう。だが、現行の著作権法下では、その行為は「改変」として禁じられ、その作品が世に出ることはない。
これは「人類全体の損失」と言うべきではないのか。ほんの少し変えれば歴史的傑作になるかもしれない種子が、権利保護という名目で摘み取られる。文化とは本来、先人の積み上げた土台の上に、新たな煉瓦を積む行為の連続であったはずだ。後世の人間がその土台に手を加えることを禁じるのは、文化の新陳代謝を人為的に止める行為ではないのか。
2. 歴史的「例外」としての著作権
時間軸を広げて俯瞰すると、著作権で著作者が金銭的利益を得るというシステム自体が、歴史上の特殊な条件下でのみ成立した「例外的な制度」であることがわかる。
複製技術が未発達でコストがかかる時代、あるいはマスメディアが情報を独占していた20世紀においては、たしかにパッケージを販売することで利益を囲い込むモデルが成立したが、それ以前、モーツァルトやベートーヴェンの時代には、演奏会やパトロンからの支援が主たる収入源であり、現在のような権利ビジネスが存在したわけではない。
現在、著作権の保護期間は著作者の死後70年とされている。しかし、情報の伝達速度が光速に近づき、生成AIが数秒で新たなコンテンツを生み出す現代において、「70年」という期間はあまりに悠長である。
思考実験としては、「1年」で十分ではないか。いや、極論を言うなら、「1秒」でも構わないのではないか。作品が世に出た瞬間に人類の共有財産となり、次の瞬間には別の誰かがそれを改良し、より良いものを提示する。この高速回転こそが、デジタル時代の文化のあり方として最も自然であり、かつ強力とも言える。
3. パクリの境界線と「アテンション・エコノミー」
「どこからがパクリか」という議論もまた、本質的ではない。「何小節一致したら盗作」などという定量的な基準は、恣意的であり、創造性の現場において本質的な意味は乏しい。類似性を法的に断罪することにエネルギーを費やすよりも、類似した作品の中から、より優れたものが自然淘汰によって選ばれる環境を作る方が合理的だ。
ここで懸念されるのは、「著作権がなくなれば、芸術家は食えなくなり、創作意欲を失う」という反論である。だが、これも根拠はかなり疑わしい。著作権という法的保護(既得権益)が撤廃されたとしても、著作者の「氏名表示(クレジット)」に対するリスペクトさえ残れば、マネタイズは十分に可能である。むしろ、現在よりも容易になるかもしれない。
現代の経済圏は「貨幣」から「信用(クレジット)」や「関心(アテンション)」へとその重心を移している。楽曲や絵画そのものは、無料で無限に複製・拡散されるに任せればよい。いわば名刺代わりの「広告」である。
作品が広く利用され、改変され、ミームとして拡散すればするほど、原作者(オリジネーター)としての「名声」は高まる。 その名声と信用を基盤に、ライブ体験、限定的なグッズ、あるいは「この人の新作ならば支援したい」というクラウドファンディング的なパトロネージュによって収益を得る。これは、20世紀的な「販売モデル」から、より原始的かつ本質的な「寄付・支援モデル」への回帰である。
現に、カラオケ音源やイラスト素材を無料で提供し、二次創作を奨励することで爆発的な知名度を獲得しているクリエイターは枚挙にいとまがない。彼らは囲い込むよりも、開放する方が、結果として大きなリターンをもたらすことを、直感的に理解し、商業的に実証している。
4. プロフェッショナルの再定義——「制度」から「野生」へ
私は普段から、医師免許などの免許制度は質を担保するものではなく、既得権益を囲い込む装置ではないかという疑念を持っている。同様に、著作権もまた免許制に通じる既得権益製造装置という側面を強く感じざるをえない。著作権という制度に守られなければ維持できない「プロフェッショナル」は、遅かれ早かれ淘汰される可能性が高い。
また「転売禁止」や「無断使用禁止」を主張し、作品がどのように受容されるかをコントロールしようとする態度は、親離れできない子供を支配しようとする親の姿に似ている。作品は、手を離れた瞬間に社会のものとなる。それが芸術の宿命ではないのか。
著作権不要論は、決して芸術家不要論ではない。むしろ、法的な守護を解き放ち、芸術家を本来の生身の存在へと還す試みである。そこでは、法制度に守られた既得権益者としての「形式上のプロ」は姿を消すだろう。代わって現れるのは、純粋に作品の強度と、人々からのリスペクトによって立つ、真の意味での表現者である。
AIとITの進化は、私たちにこの変化を強制しているのではない。本来あるべき姿、すなわち、情報が水のように流れ、誰もが自由に利用し、改良し合える「自然状態」へと、回帰を促しているに過ぎない。
私には、著作権を廃止することよりも、著作権という名の防壁によって人類の知と感性の奔流を堰き止めようとする行為の方が、よほど野蛮なもののように思えてならない。武満徹の想いはまさにこういうことであろう。
私たちは今、所有から共有へ、囲い込みから解放へと、価値観の大転換点の時代を迎えようとしている。その先にあるのは、芸術の死ではなく、かつてないほどの文化の爆発的進化、芸術のカンブリア爆発ではなかろうか。
これを思考実験のまま留めておくのはもったいない。果たしてどちらが野蛮か、一度試してみてはどうだろう。
編集部より:この記事は精神科医である東徹氏のnote 2026年1月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は東徹氏のnoteをご覧ください。