食品消費税ゼロは運用可能か:公約の前に問うべき制度設計 --- 三塚 祐治

序章

食品消費税ゼロは、その是非をめぐって毎回激しい賛否を生む。しかし議論は更新されず、同じ対立が繰り返されてきた。理由は明確だ。賛成派と反対派が、そもそも同じ前提に立っていないからである。

本稿は、食品消費税ゼロが望ましいか否かを論じるものではない。問うのは、この制度は現実に運用できるのか、という一点である。

第1章|賛否が噛み合わない理由

食品消費税ゼロをめぐる議論は、常に「税率をゼロにするか否か」という二項対立に収斂する。しかしこの対立は、本質的な問いを覆い隠している。

減税論は家計負担の軽減を、反対論は財源や制度の歪みを問題にする。だが両者とも、制度を安定的に回し切れるかという運用視点を共有していない。問題は理念や方向性ではなく、制度として実装し、維持し、必要なら修正・停止できるかどうかにある。

食品消費税ゼロは、税率論以前に、運用可能性そのものが問われる政策である。

第2章|食品消費税ゼロが要求する運用難易度

食品消費税ゼロを導入した瞬間、最初に直面するのは「食品とは何か」という定義問題である。生鮮食品、加工食品、中食、外食。この境界は日常生活では曖昧だが、制度上は明確な線引きを求められる。

制度が始まれば、事業者は即座に判断を迫られる。どこまでが非課税対象なのか。価格表示は税込か税抜か。税率変更に伴い、レジや会計システムの改修が必要になるが、これは短期間で完了するものではない。中小事業者にとってはコスト負担も重い。

インボイス制度との干渉も無視できない。課税・非課税の区分が複雑化すれば、請求書処理や仕入税額控除の判断コストは増大する。制度は、現場に「判断責任」を押し出す形で実装される。

軽減税率導入時にも、同様の問題は顕在化した。コンビニでは、イートインか持ち帰りかで税率が変わり、現場はその都度判断を迫られた。食品消費税ゼロは、影響範囲がさらに広い。加えて、時限措置か恒久措置かによって制度負荷は決定的に変わる。短期なら暫定対応で耐えられても、恒久化すれば運用疲労は蓄積する。

問題は税率の高さではない。現場が処理可能な設計かどうかである。

第3章|財源論の前提としての運用コスト

食品消費税ゼロの議論では、必ず財源論が前面に出る。財源は重要だが、それが先行することで運用議論が後景化するという問題がある。

制度は、導入・修正・停止というサイクルを回せて初めて機能する。仮に修正判断に半年を要する体制であれば、環境変化に対応できず、制度はたちまち硬直する。税率変更より重いのは、制度を動かし続ける運用コストである。

停止条件や修正条件が設計されていない政策は、制度疲労を起こす。食品消費税ゼロは、単純な減税ではなく、高度運用システムとして捉える必要がある。この視点を欠いた財源論は、政策を空転させるだけである。

第4章|なぜ公約はスローガン化するのか

選挙において、分かりやすい公約は有利に働く。運用設計を詳述するより、端的なメッセージの方が支持を集めやすい。

運用を語らない方が政治的に合理的になる場面は多い。現場負荷と政治的責任は非対称であり、複雑な制度のコストは可視化されにくい。この構造が一度限りであれば偶然で済むが、繰り返されるなら構造的要因がある。

結果として、制度の複雑さは意図せず不可視化される。では、なぜこの構造は繰り返されるのか。

第5章|公約合戦が映し出す統治能力

第4章の問いへの答えは、統治能力にある。公約のスローガン化は、国家の制度運用能力を可視化する。

修正や停止が政治イベント化する社会では、制度は硬直する。成功や失敗以前に、制度を設計し運用し修正できる統治能力が問われている。「減税しか信じられない」という世論は、制度不信の帰結にほかならない。

食品消費税ゼロが問うているのは、税率そのものではなく、統治能力そのものである。

終章

本稿は食品消費税ゼロの是非を結論づけない。問われているのは、この国が制度を動かし切れるかどうかである。

運用可能性という前提が共有されない限り、賛否は噛み合わないまま、同じ公約合戦が繰り返されるだろう。

三塚 祐治
LFO DYNAMICS Structural Lab 代表。
制度設計・政策評価の構造分析を中心に研究・執筆。技術政策、社会制度、組織設計などを横断的に扱っている。


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