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社会保険料の滞納で経営危機に陥った会社がネットで話題にのぼっています。
ある大阪の会社では、経理担当の社員が、会社が納めるべき税金や厚生年金など約5,000万円を横領していたといいます。
社長は多額の滞納金の対応に追われ、税務署や市役所などからは納付を猶予されたものの、年金事務所は猶予を認めず、差し押さえを敢行。その影響で信用が下がり、経営危機に陥ったというのです。
このように社員の横領に端を発するケースはまれでしょうが、社会保険料を滞納し、倒産に陥る企業は少なくありません。
では、会社が社会保険料を滞納すると、従業員にはどのような影響が及ぶのでしょうか?
「納付義務は会社にあるのだから、従業員には関係ない」と思うかもしれません。たしかにそのとおりです。しかし、それはあくまで原則論に過ぎません。現実にはさまざまな不利益が生じる可能性があります。
この記事では、会社の社会保険料滞納が従業員に与える影響について、社会保険労務士の立場から解説します。
社会保険料は売上とは無関係の高コスト
社会保険料は企業の資金繰りにどれくらいのインパクトを与えるのでしょうか。
たとえば、栃木県にある従業員30名の会社(平均給与額30万円、全員が40歳以上)のケースで、月額の社会保険料を試算してみましょう。
・健康保険+介護保険:約103万円
・厚生年金:約165万円
・合計:約267万円
この金額には、会社負担分と従業員負担分(給与から天引き)の両方が含まれており、会社がまとめて全額を納める仕組みです。特に中小企業をはじめとした資金繰りに余裕がない企業にとって、負担感の大きい額といえます。
しかも税金とは違い、売上に関係なく、たとえ赤字でも毎月この金額が出ていきます。資金繰りの悪化で経営者が「社会保険料の納付を遅らせよう」と決断するケースは決して珍しくありません。
帝国データバンク等の調査では2024年度1-5月期の「税金(社会保険料含む)滞納倒産」が前年同期比2.8倍と急増しています。
冒頭の大阪の会社の例にもあったように、関係省庁が滞納した会社に取引照会通知を送ると、取引先や銀行にも「税金・社会保険料を滞納している」と知られてしまい、取引縮小や停止、現金取引を求められることから、倒産に直結する事態となります。
企業にとって社会保険料は、売上とは関係なく毎月出ていく大きなお金であり、かといって滞納すると倒産という最悪の事態にも直結する、頭の痛いものなのです。
「年金事務所だけはつぶしにきてる」厳しい徴収の実態
特に、社労士として長年活動する中で、年金事務所の徴収の厳しさについては多くの声を聞いています。
税金や労働保険料の滞納では、担当者との相談や分納交渉が柔軟に行われ、「期限を区切って少しずつ」など現場判断がきくケースが多いです。しかし、日本年金機構(年金事務所)は全く異なり、国税徴収法に基づく機械的かつ徹底的な差押執行が行われます。
“いきなり、全銀行口座の凍結。売掛金や店舗のレジ現金まで差押え。朝には会社の資金繰りが全てストップ。”
そんな証言が、ネット上でも多数見られます。督促状が届いたら最後、一切の繰越や温情は通らない。電話も相談も意味がないほど、自動的に執行されてしまう──。
筆者自身、「税務署はまだ相談に乗ってくれた。なのに年金事務所だけは“つぶすつもり?”と思うほど強硬だった」という企業経営者の生々しい声を聞きます。
ここまで厳しい徴収は、中小零細企業にとって「破綻の引き金」として効いてしまうのです。冒頭の大阪の会社はまさにこの状況に当てはまります。
経営破綻の日は突然やって来ます。「昨日までは大丈夫」でも「今日からはすべてがゼロ」―従業員も、経営におけるこの不安定さを頭に入れ、万が一に備えておく必要があります。
厚生年金の場合──万一に備えて証拠書類の保管を
では、会社が社会保険料を滞納した場合、従業員にはどのような影響があるのでしょうか。
まず、厚生年金について見てみましょう。
「会社が未納していたら、年金がもらえなくなるのでは?」。これは従業員にとって大きな不安です。
厚生年金は原則として会社が納付義務者であり、従業員に直接のペナルティはありません。
実際、毎月給与明細や雇用契約書など、きちんと給与天引きが行われていた証拠があれば、日本年金機構で記録訂正が認められます。
「会社が倒産した後に未納分が発覚したが、給与明細のおかげで記録が修正された」という証言も決して珍しくありません。
ただし、事実上の夜逃げ倒産、資格喪失届や離職票の放置など会社側の手続き不備が重なると、厚生年金の加入期間に空白が生じ、年金受給に必要な10年の資格期間すら満たせない危険も出てきます。
証拠書類を集めて年金事務所に相談すれば大抵は救済策が講じられるので、給与明細・雇用契約書・離職票などの保管を徹底しましょう。
健康保険の場合──滞納が長期化し、経営破綻すると保険証が無効になる場合も
では、健康保険の場合はどうでしょうか。
健康保険料も納付義務者はあくまで会社。従業員とその家族は、保険証を持っていれば、会社が一時的に滞納していたとしても、原則として通常の自己負担(3割)で医療の現物給付を受けられます。
「会社が保険料を払っていないことで医療が受けられなくなる?」という疑問は、原則“ノー”なのです。
しかし、滞納が長期化し、預金や売上金の差押えなどで会社経営が立ち行かなくなると、健康保険の適用事業所そのものが廃止され、全喪(資格の全員喪失)となります。
この瞬間から従業員も家族も保険証が無効となり、すぐに国民健康保険の手続きをしないと医療費は全額自己負担、さらに任意継続や失業給付の手続きも混乱し、生活に甚大な影響が及ぶのです。
従業員は“守られている”、でも“限界の先”は誰もがゼロになる
社会保険料の納付義務は会社にあり、会社がきちんと納付していれば従業員や家族は医療や将来の年金で困ることはありません。
万一滞納があっても、保険証が使えるうちは、現物給付・年金加入記録とも大きな問題にはなりません。
しかし、社会保険滞納からの差押等で経営破綻となれば、健康保険や年金だけの問題ではなく、とつぜん失業することもあり、一気に生活が危機にさらされます。
さらに年金事務所の徴収は、税金や他の公的保険料よりも遥かに強力かつスピーディーで、資金繰りも生活設計もその日から狂うリスクがあるのです。
経営者は「払えない・後回し」にせず、早めに専門家と相談を。
従業員も、もしもの時のために証拠書類や情報をこまめに残し、個人でも自衛意識をもつべきです。
“普段は守られている”、でも“限界の先”は誰もがゼロになる──ぜひこのリアリティを胸に刻んでおきましょう。
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李 怜香 社会保険労務士・産業カウンセラー・ハラスメント防止コンサルタント
岐阜県生まれ。早稲田大学卒業。1999年、宇都宮市にて李社会保険労務士事務所(現 メンタルサポートろうむ)を開業。2011年、産業カウンセラー登録。2012年、ハラスメント防止コンサルタント認定、(公財)21世紀職業財団ハラスメント防止研修客員講師に就任。2019年、健康経営エキスパートアドバイザー認定(第1期)。
官公庁から大手企業、教育機関まで幅広い分野で研修実績がある、ハラスメント対策のエキスパート。ハラスメント外部相談窓口の相談対応や、事案解決支援の経験を活かした実践的な指導には定評があり、研修受講者からの満足度は90%以上。法的知識とカウンセリングスキルを組み合わせた独自のアプローチで、職場のメンタルヘルスやハラスメント防止の分野で、企業をサポートしている。
公式サイト https://yhlee.org/wp/
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編集部より:この記事は「シェアーズカフェ・オンライン」2025年9月24日のエントリーより転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はシェアーズカフェ・オンラインをご覧ください。