言葉を変えれば差別はなくなるのか:放送禁止用語という虚構

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長い変遷を経て、「きちがい」は放送禁止、「障害者」は「障がい者」に変更になった。言葉を変えれば差別はなくなるのか。筆者が長年感じていた疑問である。

放送禁止という虚構

田原総一郎は「サンデープロジェクト」で「北朝鮮はきちがいだ」と口にし、CM明けに撤回した。元財務大臣の塩川正十郎は「真相報道バンキシャ!」で騒音おばさん事件の被告を見て「これ、キチガイの顔ですわ」と言い放ち、司会の福澤朗に制止されて番組を降板させられた。

小林旭はフジテレビ「バイキング」に初めてコメンテーターとして出演した日に、ラスベガス銃乱射事件の犯人を「バカかキチガイしかいない」と切り捨て、CM明けに榎並アナが謝罪した。 山城新伍、林真理子、十勝花子、中居正広。名前を挙げればきりがない。

政治家も芸能人も、つい口にしてしまう。それだけこの言葉が日本語として深く浸透しているということだ。日常会話で誰もが自然に使ってきた言葉が、テレビに乗った瞬間だけ「問題発言」になる。この奇妙な非対称に、誰も疑問を持たないのだろうか。

そして、最も本質的な問いはこれだ。 「きちがい」は、一体誰を傷つけているのか?

筆者は長年、障害者支援の活動に携わってきた。その現場での実感として言えることがある。 「きちがい」と言われて自分のことだと感じる障害者は、筆者が接してきた限り、ほぼいない。この言葉は現代の用法では「熱狂的な人」「常軌を逸した行動」を指す比喩表現であり、精神障害者を直接指す意味はとうに薄れている。

むろん、この言葉で過去に直接傷つけられた経験を持つ当事者やその家族がいることは承知している。そうした方々にとって、語義の変遷とは無関係に、言葉そのものが痛みを呼び起こすことがあるだろう。その痛みを否定するつもりはない。

田原総一郎が北朝鮮を「きちがい」と呼んだとき、それを聞いて傷ついた精神障害者がどれほどいたのか。小林旭が銃乱射犯を「きちがい」と呼んだとき、誰が被害者なのか。

もちろん、言葉の受け止め方は人それぞれであり、不快に感じる人が皆無だとは言わない。だが、こうした発言が実際に誰かの権利を侵害したという事実は確認されていない。あるのは、「抗議が来るかもしれない」という放送局の恐怖だけだ。

1970年代から80年代にかけて、特定の団体が放送局に集中的に抗議を行ったというエピソードがある。当時の運動には、精神障害者への偏見と闘い、当事者の権利を社会に認めさせたという歴史的意義があった。

問題はその後だ。局側は個別の文脈を検討する手間を惜しみ、「使わなければ抗議は来ない」という消極的判断で自粛リストを膨張させた。 運動の成果が、いつしか機械的な言葉狩りにすり替わった。以来、半世紀にわたって誰も検証していない。

そこにあるのは配慮ではない。思考停止である。しかも、放送自粛リストには首をかしげる言葉が山ほどある。「片手落ち」は「片方の手落ち=不備」であり、身体障害とは語源的に無関係だ。 「百姓」は農業従事者が何百年も誇りを持って使ってきた言葉だ。「板前」は性別を限定するからダメだという。ならば「女将」はどうなのか。

なお、「差別的な語源を持つ言葉を使い続けること自体が差別構造を再生産する」という言語学・社会学的な議論があることは承知している。傾聴に値する視点だ。だが、その理論を突き詰めれば、語源に少しでも差別性を含む言葉はすべて排除しなければならなくなる。問われるべきは語源ではなく、その言葉がいま・どのような文脈で・誰に向けて使われたかではないか。

こうした過剰な言葉狩りの最大の害は、言葉を消すことで差別問題に「対処した」という錯覚を社会に与えることだ。 テレビから「きちがい」が消えても、精神障害者の就労機会の不平等は消えない。地域社会での孤立も解決しない。言葉だけきれいにして、構造的な差別から目を逸らす。これは配慮ではなく、欺瞞だ。

本当に障害者のためを思うなら、言葉を消すことに費やすエネルギーを、雇用の場を一つ増やすことに向けるべきだ。

無意味な配慮と欺瞞

同じ構造は、「障害者」を「障がい者」と書き換える風潮にも見て取れる。2000年に東京都多摩市が「障がい者」表記を採用して以降、自治体や企業に広がった。

筆者は障害者支援をライフワークとしており、長年にわたって当事者と接してきたが、「害」の字を問題視する声に出会ったことはほとんどない。もちろん、すべての当事者の声を代弁できるわけではない。だが、少なくとも現場の肌感覚として、この書き換えが当事者から求められたものとは言い難い。

そもそも「障」の字にも「さしさわり」という意味がある。「害」だけが差別的だというなら、「しょうがい者」と全て平仮名にしなければ論理的に筋が通らない。

表記の問題はさらに根深い。全国紙大手は記事本文で「障害者」と書きながら、自社の採用情報では「障がい者採用」と表記している。同じ新聞社の中で表記が分裂しているのだ。本文では正確さを優先し、採用ページでは「配慮しています」というポーズをとる。

「障がい者」表記を善意から採用した自治体や企業があることは理解している。だが、善意であればこそ、その表記が実際に当事者の生活を改善しているかを問い直す必要があるのではないか。

誤解なきよう言えば、差別的意図をもって人を傷つける言葉を肯定しているのではない。問題にしているのは、文脈を無視した一律規制と、表層的な書き換えという手法だ。悪意をもって人に投げつけるのと、日常の比喩として使うのでは意味がまるで違う。その区別を放棄して言葉だけ消す行為は、思考の放棄に等しい。

言葉の表面を整えることで、就労機会の不平等や地域社会での孤立といった構造的な課題から目を逸らしてはならない。「きちがい」を放送禁止にしても、「害」を平仮名にしても、差別の実態は何一つ変わらない。救われるのは、抗議を恐れる放送局と、配慮したふりをしたい企業だけである。

尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)

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