私のバブル戦後史(6) 山一証券はなぜ「自主廃業」したのか

不動産バブルの崩壊は、最初は大した問題ではなかった。不動産業界は壊滅したが、製造業はほとんど影響を受けなかった。株価は下がったが、GDPは1990年代前半も上がっていた。それが日本経済全体の問題になったのは、1997年11月である。

日銀の白川元総裁は、著書『中央銀行』の中で「90年代の日本の金融危機で最も決定的な瞬間は何かと問われれば、私は三洋証券のコールローンのデフォルトだと答えるだろう」と書いている。三洋証券といわれても今では知っている人は少ないが、小さな証券会社の破綻が思いもよらぬバタフライ効果を起こしたのだ。

最初はたった10億円のデフォルトだった

三洋証券は兜町の地場証券だったが、バブルに乗って体育館のような巨大トレーディングルームをつくり、トレーダーがエレベーターで上り降りするテレビコマーシャルを流していた。

その放漫経営が仇となり、1997年11月3日に会社更生法の適用を申請した。負債総額は約3700億円で、それ自体は大きなニュースではなかったが、その翌日にインターバンク市場(無担保コール翌日物)で、10億円の債務不履行を起こった。

コールローンは金融機関が日常的に資金を融通する市場で、ほぼゼロ金利で担保も取らない。それがデフォルトになることはまったく想定していないからだ。万が一デフォルトが起こった場合には、日銀が特別融資することになっている。

ところがこの日は日銀特融がおこなわれず、群馬中央信用金庫が三洋証券に貸した10億円が回収不能になってしまった。この原因には諸説あり、日銀が証券会社は銀行ではないので特融の対象ではないと判断したといわれたが、日銀の担当者は大蔵省証券局が連絡しなかったという。

だがそれまで金融機関の経営状態に関心をもたなかったマーケットで、デフォルトが起こった衝撃は大きかった。短期資金の市場は凍りつき、銀行がコールローンに出していた資金を引き上げた。

このため経営危機が噂されていた銀行の資金繰りが苦しくなり、11月17日には北海道拓殖銀行が破綻し、北洋銀行に営業譲渡した。その次にねらわれたのが山一証券だった。

山一証券の自主廃業

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