親が死んで「ほっとした」……え、私って人でなし?

「ほっとしたんです」

親を見送ったあとそう口にした瞬間に青ざめる人がいる。しかもけっこうな数で。職業柄たくさんの人から親を見送った話を聞いてきたけれどこの一言のときだけはみんな決まって声が小さくなる(罪の告白かというくらいに)。

『親を見送って、はじめて自分の人生が始まる 介護と別れの先にある「これから」の30年』(上野 利惠子 著)きずな出版

本題に入る前に(まだ何も話していないけど)順番に整理しておく。多くの人は30代から60代で親を見送る。人生の酸いも甘いもひと通り味わった大人だ。それでも最初はみんな同じことを言う。「悲しくて悲しくて仕方がない」「頭が真っ白になった」。ここまではまあ想定どおり。問題はそのあとである。

少し時間が経つと別の感情が顔を出す。安堵。解放感。「これでもう心配しなくていい」というあの気持ち。

たとえば5年間お母さんの通院に付き添ってきた50代の女性がいた。毎週火曜は病院の日。待合室で2時間。帰りにスーパーで総菜を買って実家に寄る。葬儀の翌週の火曜の朝に目が覚めて「あ、今日は行かなくていいんだ」と思ったそうだ。で、その直後に泣いた。ほっとした自分が許せなくて泣いたのだという。

「こんなふうに思う私は冷たいんじゃないか」

いや冷たくないから。断言する。何年も介護してきたら体はボロボロだし先の見えない不安で頭はいっぱいだ。それが終わってほっとしない人間のほうがどうかしている(言い過ぎか。言い過ぎだな。でも撤回はしない)。

ついでに言っておくと悲しみより先に「穴」が来る人もいる。涙が出ない。感情がぴくりとも動かない。日常だけがベルトコンベアみたいに流れていく。泣けない自分がいちばん怖いと言った人もいた。

で、いちばん厄介なのがこれ。孤独。

「自分がいちばん上の世代になった」
「この世に私を無条件に心配してくれる人がもういない」

私たちは親がいる人生というやつを自分で思っているよりずっと当たり前に生きている。失って初めて「あ、1つの時代が終わったんだ」と気づく。親を大事にしてきた人ほどこの穴は深い。たぶん。

ほっとしたことに罪悪感を覚えている人に伝えたい。安堵も空白も孤独も全部まとめて「親を見送った人」の正規装備だ。いい悪いで仕分けなくていい。……とここまで書いておいてなんだけど結論は特にない。あるとすれば1つだけ。あなたは人でなしじゃない。以上。

※ ここでは、本編のエピソードをラノベ調に編集し直しています。

尾藤克之(コラムニスト、作家)

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