ルーカスのコラムの内容--池尾和人

池尾 和人

昨日の投稿の続きだが、3月24日の日本経済新聞「経済教室」の記事で、岩田規久男氏はロバート・ルーカスのコラムに言及して、ルーカスが「ゼロ金利であるから貨幣ストックを増やす方法はない」という日銀の言い訳を批判しているとしている。このコラムでルーカスは、確かに「政策金利がゼロ、あるいはゼロ近傍に近づくと、金融政策はできる限りのことをやってしまったことになる」という広く支持されている見方を否定し、日本銀行が1990年代のデフレと不況に対抗することに意欲的でなかったことを合理化するために、この見方を利用したと述べている。


しかし、「貨幣ストックを増やす方法」があるといったような話は、全くされていない。また、岩田氏は、ルーカスがおおよそ「ゼロ金利でない証券は無数に存在するから、中央銀行はそれらを購入することで、流動性、すなわち貨幣ストックを際限なく供給できる。(後略)」と述べているとしているが、そんなことはどこにも書かれていない。だいたい、このコラムの中で貨幣ストック( money stock )といった単語は一度も使われていない。

池尾和人・池田信夫『なぜ世界は不況に陥ったのか』(日経BP社)のpp.191-2で、


日本銀行は、量的緩和は行いましたが、リスク資産を買うというのは例外的にしかしていません。ところが、いまのFEDはその両方の非伝統的金融政策をやっています。むしろFEDは、量的緩和はほとんど効かないと判断しているらしくて、主眼はリスク資産の購入にあります。量的緩和はその副産物といった感じです。すなわち、信用に基づく緩和(credit-based easing)をやっているといわれています。

要するに、いまは安全資産金利とリスク資産の利回りの格差、つまりリスクプレミアムがすごく拡大しているので、ベースの安全資金金利がゼロでも民間の調達金利は高止まりしている。そこで、リスクプレミアムの縮小を直接の狙いとして、FEDはリスク資産を買っているわけです。狙い通りにリスクプレミアムが縮まれば、民間の企業とか家計からみたときの調達コストは下がるわけだから、追加的な緩和効果はあるという話になります。ベースの安全資産金利はもうゼロ以下に下げられないとしてもね。しかし、その実際の効果については、それこそ大いなる社会実験だとしか言いようがないですね。


という解説をしていますが、ルーカスのコラムは、ここでいっている credit-based easing (あるいは、単に credit easing )を強く支持するという趣旨のものである。金利は1種類しか存在していないのではなく、満期限と発行体の信用度の違いに応じて無数の金利が存在する。したがって、短期の安全資産の金利がゼロでも、金利がゼロではない資産はいくらでも存在する。それらの資産をFEDが購入することで追加的な金融緩和の余地があると主張されているだけである。

FEDがリスク資産の購入を通じて供給した資金は、日本の量的緩和のときと同じく、準備預金として積み上がっている。この1年間に、米国のベースマネーの供給量はほぼ倍増しているけれども、現金需要は微増で、そのほとんどが準備預金の増加である。要するに、ブタ積みが増えているだけである。それゆえ、市中の流動性のうち、そのごく限られた部分集合(例えば、M2)は資産間の振り替えで増加していても、流動性を際限なく市中に供給できているわけでは全くない(米国のM3も、日本でいう広義流動性と比べれば、きわめて狭い概念でしかない)。

貨幣ストックにこだわった物言いの仕方は、私には、古い時代遅れの経済学の枠組みにとらわれたもののように思われる。1950年代後半から1970年代前半にかけてのマネタリー経済学の標準テキストは、Don Patinkin の Money, Interest and Prices であった。他方、現在のマネタリー経済学の標準テキストは、Michael Woodford の Interest and Prices である(今回の金融危機で批判にさらされるようになっているが...)。半世紀近くを経て、テキストのタイトルから Money という単語がなくなっていることの意味をよくよく考えてもらいたいものである。