どうやら冤罪事件ということが確定しそうな「足利事件」。時効が成立してしまった今となっては、真犯人の追求は不可能なようです。
六月初め、東京高検の刑の執行停止手続きにより、服役者が17年ぶりに釈放されて以来、なにか「アゴラ」の上でコメントしようと思っていたのですが、最高検の伊藤次長検事を初めとして、さみだれ式にポツリ、ポツリとでてきた謝罪、そして安易な情緒に流れる日本のメディアのたれ流し報道を眺めているうちに、すっかり自分の切り口の焦点が定まらなくなってしまい、弱っているうちに月があらたまってしまいました。
もちろん当事者ご本人が不当に受けた苦痛や屈辱などの「人間ドラマ」も重要ですが、日本の刑事司法の将来を念頭においた場合、この事件の意義は次の二つだと思います。
ひとつには「警察の犯罪捜査の質の向上」です。警察による取り調べの可視化は、喫緊の課題であり急務であるということは、すでに論をまたないと思います。
釈放が確実となった6月5日の早い時点で、森英介法務大臣は機先を制するかのように「いっこく堂」よろしく、「可視化は捜査に支障をきたす」とのたまわられましたが、捜査に支障がないようにと、警察側の便宜を図った取り調べで得られた自白が、公判でコロコロひっくり返されるようでは話になりません。「捜査の質」を犠牲にしなければならない「捜査の便宜」など、本末転倒でしょう。
「質の向上」が必要となる理由には、単なる「現状改善」以上のものがあります。裁判員制度の導入により、裁判員として刑事裁判につきあわされることになった一般人は、現行レベルの捜査手法や取り調べに基づいた刑事訴訟制度の片棒を担ぐことに抵抗を覚えるでしょう。特に今回の事件以降、その傾向が強まるものと思えます。また当然考えなければならないのは、そんな裁判員の「とまどい」を逆手に取った容疑者が、警察署ではサッサと自白しておいて、公判で涙ながらに「自白を強要されました~」などとパフォーマンスした日には、とてもじゃありませんがカタギの一般人にあえて目前の被告証人の証言を無視し、警察署での当初の自白に基づいた有罪判決を下すことを期待するのは、かなり難しくなるのではないでしょうか。警察は自らの正当性を担保する上でも、取り調べの可視化に同意することが得策であることに早く気がつくべきです。
イギリスにはPolice and Criminal Evidence Act 1984という法律があり、これにより取り調べの可視化に関する取り決めがなされています。「警察および刑事証拠法」と訳されているようですが、容疑者の取り調べを含め、イングランドの警察による犯罪捜査行動の全ては、この法律と、この法律の下に内務大臣(Home Secretary)が随時定める規範(Code of Conduct)に則ることになっています。(最近、昨今のテロ事件の影響により、「Serious Organised Crime and Police Act 2005」の下、修正がなされています。)
この法律(略して「PACE」と呼ばれる)の勉強が私は大のニガテでした。とくに規範のCode C(勾留と取り調べに関する規則)、Code E(取り調べのテープ録音に関する規則)、Code F(同ビデオ録画に関する規則)などでは、録音/録画開始手順だの、トイレ休みをとれだのと、それこそ「箸の上げ下げ」レベルにいたる細かい取り決めがなされており、テストに向けてこれを暗記することは相当以上の苦痛でした。
イギリスがこのPACEを制定することになった経緯には、いわゆるIRA関連のテロ事件において冤罪事件が多発したことと、これに関係してイギリス政府がアイルランド政府により欧州人権法裁判所に訴えられるという、いささか国辱的な顛末がありました。
しかし原因はどうであれ、自らの過ちを認めこれを正すという「勇気」は、古今東西を通じて為政者に不可欠の美徳です。
「過ちて改めざる 是を過ちと謂う(「論語」)」。
「同じことを繰り返しながら、違う結果を望むこと、それを狂気という。(アインシュタイン)」。
日本の未来の世代により良い刑事司法制度を残すためにも、刑事司法にたずさわる人々には、自らの過ちをみとめ、一歩踏み込んだ改革を推し進める「勇気」が必要とされていると思います。
第二は、この「勇気」と関連しますが、「司法行政にたずさわる法曹、そして政治家の質の向上」です。
今回の一連の顛末で、私が尊敬に値すると思ったのは、他に先んじて検察を代表して謝罪した伊藤次長検事。そして服役者の釈放後も、「まだ無罪が確定したわけではない。自供も得ており、[服役者]が犯人だと信じている」と明言した、事件当時、捜査指揮に当たった栃木県警の元刑事部長氏です。
なぜ私がこの警察官に尊敬の念を覚えるのか。それは たとえ警察が結果として不幸にも間違った結論にたどりついてしまったとしても、彼の発言は与えられた状況下で従来の捜査手法を踏襲し、自らの信念の下に職務を遂行した捜査当事者として当然の挟持だと私は思うからです。
服役者の方が受けた不当な仕打ちが許せないということはもちろんですし、DNAの再鑑定の結果が出た後でもこだわっているのは、ちょっといきすぎかなとも思いますが、それとは別の次元で、国民生活の安全は、こうした現場の警察官のプライドに支えられているということも真実です。もし今の日本の警察官の大多数が「(事件のことは)思い出したくない。」とのたまった、同じ栃木県警の某警察官のような人だったらどうしよう、とは思いませんか?
短期間ではありましたが、イギリスにおける刑事裁判の経験を通じて私が得た確信は、刑事事件において「人を裁く」という行為に対して、我々は常に「畏れ」の気持ちを持たなければならないということです。それこそ芥川の「薮の中」のように、「真実」は往々にして一個人の視点、知識、想像を超えたところにあり、キリスト教の流儀でいえば「神のみぞ知る」。だからこそ、刑事事件にたずさわるそれぞれの人間は、ベストと思われる仕組み(デュー・プロセス)の中で、各々の職務を忠実に、かつ誠意をもって全うするしかないのです。
私がイギリスで法学生をしていた1990年代の初頭は、前述のIRAテロ関連の冤罪事件が次々と解決に向かった時期にあたります。とくにバーミンガム6人組事件や、ギルフォード4人組事件など、メディアに大きく取り上げられていた事件において、服役者たちの釈放が相次ぎました。これらの事件の控訴審を当初担当した当時のイングランド主席判事(Lord Chief Justice)のレーン卿は、バーミンガム事件の再審において、「なん度もこれらの事件内容を吟味し直しても、一審の陪審員は提出された証拠に基づき、結果として正しい評決に達したと確信せざるを得ない。」と発言。 後にこれらの事件が警察の悪質な捜査が原因の冤罪事件であったことが確立した時、レーン卿に非難が集中し、世論に後押しされた超党派国会議員グループによるレーン卿の罷免を求める署名運動にまで発展しました。
当時の大法官(Lord Chancellor、法曹出身者だが、首相によって政治任命された閣僚ポスト)はスコットランド人のマッケイ卿でした。サッチャー政権下、推し進められた一連の法曹改革において、改革推進派であったマッケイ卿は、守旧派の頭目であったレーン卿とたびたび対立していましたが、この危機に際してマッケイ卿は躊躇なく「レーン卿をはじめ、事件を担当した各裁判官たちは、与えられた状況の中でベストを尽くした」と明言したのです。
事の推移をかぶりつきで眺めていた私たち法学生は、このマッケイ卿の断固たる姿勢と世論に左右されない「勇気」に、「オトコやなぁ~」と感心したものです。
刑事司法の仕組みをどのように設定するのがベストであるか、いかに改善されるべきか、という命題は「政治」と「立法」のレベルで議論されるべきですが、現行の刑事司法制度の仕組みのなかで職務を遂行する官吏/法曹はブレてはいけないのです。
ひるがえって、今回の事件に際して、警察/検察の関係者を擁護するでもなく、将来に向けた改革のリーダシップを取るでもなく、「重く、真摯にうけとめる」という事なかれ発言に終始する森英介法務大臣の態度には幻滅しました。もし現状の捜査手法を維持することが必要であると心底考えておられるのであれば、その信念のほどを納得いくまで国民に開陳していただきたい。結局のところ、森大臣にはこの問題を直視する「勇気」に欠けているのではないかと結論せざるを得ません。もし大臣が「総選挙を控えた現時点で、云々...」という、手前勝手な都合を優先させているのであれば、「勇気」の有無以前に、政治家として、ひいては「公人」として、その資質に重大な欠陥があるのではないでしょうか。
内部関係者の圧力に屈せず、時の世論になびかず、自らの信ずるところを行う「勇気」こそは、刑事司法の仕組みの現在における運営と、将来にむけた展望と改善を一任された法務大臣に必須の要件だと思います。
来る総選挙後、どこの政党の政権下で、どの政党の誰が森大臣の後任になるのか分かりませんが、司法制度と「法の下の正義」ということに関して、より深い透察と、信念を抱いた方、そしてなによりも「勇気」のある方であることを期待しています。
「政治形態やしくみその他と別の次元で、政治をおこなっているのはやはり人間の心である...」
(徳川幕府初期の大老、保科(松平)正之に関して、みなもと太郎「風雲児たち」)
(なぜ江戸城に天守閣がないのか、その理由を知らない人はぜひ読んでみてください。)
なお、最後に、これはすでに以前「アゴラ」で発言した(コチラ)ことですが、また繰り返させていただきます。日本警察の捜査手法の改善の重要な目的の一つは、 日米安保協定の下、在日米軍兵士に実質上認められている治外法権の撤廃です。この問題に関するアメリカ側の主張のひとつは、日本の警察の捜査手法が公正を期していないというものです。OJシンプソンを一度は無罪放免したアメリカさんにコケにされ、沖縄をはじめとした基地の町の婦女子の涙を犠牲にしてまでも避けなければならない「捜査上の支障」とは、なんなのでしょうか。
この問題に関しては、最近河野太郎氏がそのブログでとりあげられています(コチラ)。もっと多くの人にこの問題に関心をもって欲しいと思っています。
コメント
森法相 足利事件の結果、存命であれば再審が始まった可能性が高い人を(収監年数が長いのにまだ執行されていない死刑囚がいるのに)なぜかわずか2年で死なせてしまった。
そのサインをした生身の人間としてはあまり関わりたくないと思うのも無理もない。早く辞めたいくらいじゃないかと。
捜査の可視化には大賛成です。
しかし、「こうした現場の警察官のプライドに支えられているということも真実です。」という点には賛同出来ません。プライドがあるなら足で証拠を探すべきであり、取り調べ室で自白を強要するべきではありません。物的証拠を挙げるか、物的証拠で裏付けが可能な自白を得ることが彼等の仕事であり、偽物の犯人を検挙して点数を稼ぐことではないのです。私にとっては「まだ無罪が確定したわけではない。自供も得ており、[服役者]が犯人だと信じている」というコメントは噴飯物でした。
また法曹側も物的証拠や物的な裏付けがある自白がないのなら有罪にすべきではありませんでした。推定無罪の原則を踏みにじっているとしか思えません。
彼等の強引な捜査及び裁判のせいでDNA鑑定にまで汚点が着いてしまいました。真犯人も結局闇の中です。
はっきり言って関係者は懲戒免職にされても仕方がない程の大失態です。もし当事者たちがこんな杜撰な捜査・審判で「信念の下に職務を遂行した」と本気で思っているとしたら、それは自己の過ちを認めたくないがための心的防衛規制でしょう。
>私が尊敬に値すると思ったのは、…服役者の釈放後も、「まだ無罪が確定したわけではない。自供も得ており、[服役者]が犯人だと信じている」と明言した、事件当時、捜査指揮に当たった栃木県警の元刑事部長氏です。
>なぜ私がこの警察官に尊敬の念を覚えるのか。それは たとえ警察が結果として不幸にも間違った結論にたどりついてしまったとしても、彼の発言は与えられた状況下で従来の捜査手法を踏襲し、自らの信念の下に職務を遂行した捜査当事者として当然の挟持だと私は思うからです。
映画『アンタッチャブル』の1シーンを思い出しました。
>1930年、禁酒法が施行されたアメリカでは、密売酒の利権をめぐりギャングの抗争が激化、中でもシカゴはアル・カポネが猛威を振るい、警察も手が出せないでいた。
>そんなシカゴの街に、シカゴおよびオハイオ酒類取締局の首席捜査官としてエリオット・ネスが派遣される。ネスは独自のチームを作りカポネの逮捕に乗り出すが、彼らの行く手には、カポネと激しい争いが待ち構えていた。
そのエンディングに新聞記者の問いかけにネスは次のように答える。
「禁酒法が廃止されるそうですが、何か感想は」
「飲みに行くよ」
いい台詞だ、と映画を見るたびに思いました。