今日帰宅して、届いていた『中央公論』の8月号をみたら、竹森俊平くんが私のコラムの記事をとり上げて、揚げ足取りのような批判を書いていた。まじめに読む気は起きないのだけれども、最後の結論めいたところだけ目を通したら、がっくりした。すなわち、次のような記述がされているのだが、これってあまりにお粗末じゃないかな。
いま、日本の全労働者が就業時間の二割を削って、その時間を家族の介護に当てたとしよう。その結果、精神的な満足は得られるかもしれないが、所得と生活の水準の低下は免れず、GDPも二割ほど減るだろう。全労働者が就業時間を二割削る代わりに、労働人口の二割が医療と介護を職業に選ぶならば、他の労働者との代金のやり取りによってGDPは膨らむかもしれないが、結果は同じはずだ。つまり、日本の所得と生活の水準は低下する。p.57
申し訳ないけれども、これは、経済学者の主張とはとても思えない。介護サービスを受けられても、それは単なる「精神的な満足」で経済厚生の向上にはならないと言っている訳だけれども、介護を受けられるようになって生じたはずの要介護老人の効用の増大は無視すべきなのか。竹森くんは、食べること以外からは効用を感じないのかもしれないけれども、医療や介護のサービスは一般には経済厚生の向上をもたらすものだ。
資源の総量すべてを例えば小麦の生産に振り向けていた状態から、小麦の生産に振り向ける割合を減らして、介護サービスの生産に振り向けたときに、全体としての経済厚生が増大することになるか否かは、小麦と介護サービスの間の生産の限界変形率(小麦の生産を限界的に一単位減らしたときに介護サービスの生産を何単位増やせるか)と小麦と介護サービスの間の消費の限界代替率(小麦の消費を限界的に一単位減らしたときに無差別であるためには介護サービスの消費が何単位増える必要があるか)の大小に依存している。限界変形率>限界代替率であれば、介護サービスの生産に資源を振り向けた方が経済厚生は改善する。--これって、日吉のミクロ経済学のレベルの話だと思うけれども。
現状において医療・介護サービスは不足気味だとみられるから、その限界代替率はかなり低いと想定される(要するに、ちょっと増えただけでもかなり嬉しい)。しかし、医療・介護サービス供給の生産性が低ければ、限界変形率>限界代替率とならないかもしれない。それゆえ、医療・介護サービス供給の生産性は十分に問われなければならない。
以上のような話と、高齢化が進むと扶養しなければならない人口が増える、その中で生活水準を維持していこうと思うと、生産性を向上させる必要があるという話がごっちゃにされているのではないかな。生産性を上げる必要は、すべての産業を通じてあって、自動車産業もそうだし、医療・介護サービスもそうだ。
ところで、自動車を中心とする機械産業の成長を期するのはいいけれども、誰に自動車を買ってもらうつもりなのかな?
コメント
池尾先生がエントリーで述べておられるような経済学的な視点とは異なるレベル、つまり私のような経済学の素人レベルでも、引用されている部分には違和感を感じてしまいます。それはお金などに換算出来るものと出来ないものを一緒くたにしていることに感じる違和感だと思います。これはGDPという指標の限界かも知れません。一時期ブログでも流行った「ソウルフルな経済学」にも似た話がありましたが、今後は人間の集団を評価するのにGDPなどとは全く異なった視点の指標が必要になってくるのではないでしょうか。GDPという指標に目を奪われていると他の指標を見失ってしまう気がします。
要介護老人が自動車を購入することはないでしょうけど。
この話は、仮定の話ではなく、高齢化により、今現実に起きている話ですよね。
要介護の親を抱える人間が、介護に時間を取られて働く時間がなくなるというのは、よくある話です。
健康に長生きできる社会が、経済厚生を向上させるというのはあると思います。(ただし人口過剰だとそうもならないでしょうけど。)
しかし、不健康に長生きする社会はそうではないと思います。
さて、これを経済学の範疇ではなくなってくると思います。
寝ぼけて間違って投稿してしまったのですが、続きを書きます。
健康に長生きできる社会というのは素晴らしいと思うのですが、不健康な老人はどうすればいいかというのは、私には分かりません。
せいぜい自分の親は長生きしてほしいと思うくらいのものです。