次官会見の廃止歓迎 - 北村隆司

北村 隆司

鳩山内閣が「事務次官などの定例記者会見は行わない」とする指針を発表すると、報道各社は一斉に抗議の声を挙げ、日経新聞は「次官会見の廃止は短慮だ」と言う社説まで掲げました。

「新政権は閣僚、副大臣、政務官が対外説明すれば、事務次官の記者会見を廃止しても国民の知る権利を犯さないと言うが、これは、そもそも『知る権利』との間で問題が生じるかどうかは『知られる側』である政治権力者が判断する問題ではない。事務次官記者会見が『事故米』問題の白須敏朗農水次官を辞任に追いやった実例でもわかる通り会見廃止を喜ぶのは官僚たちである」という主張です。

果してそうでしょうか?


同じ日経の大ベテラン記者である田勢客員コラムニストは「首相と新閣僚の記者会見を深夜テレビで見ていて、従来と随分変ったな、と感じた。役所が用意したメモを読み上げていると思われる閣僚は居なかったし、自分の言葉で語っており、きちんと熱意が伝わってきた。記者会見もオープンで、外国人記者や雑誌なども加わっていたようだ。事務次官ら官僚の記者会見を行わない事に批判もあるようだが、閣僚より役人の言うことの方が信じられる、と思ってきたメデイアの姿勢も官僚政治に力を貸してきたのは否めない」と、ご自身のコラムに書いておられます。

「閣僚より役人の言うことの方が信じられる、と思ってきたメデイアの姿勢も官僚政治に力を貸してきたのは否めない」と言う事は「報道と官の共生による世論操作に知らぬ間に加担して仕舞った」と言う反省の弁でもあり、私も同感です。

識者の意見は、「事務次官記者会見廃止は暴挙である」と声高に抗議する「メデイアを生活基盤とする立花氏の様な評論家」と、「官僚はあくまで政治家を補佐する立場。政治的中立と守秘義務が課せられ、記者と接触すべきでないとされている。日本ではこれまで政策の立案のみならず発信まで官僚が握ってきた。新政権の方針は正常な政と官の関係に移行しようというもので、世界の常識に従った方針だと言える」とする「英国の例を挙げて今回の措置を支持する意見」に分かれていますが、私は後者に賛成です。

日経の社説が事務次官記者会見の成果として挙げた白須次官は、農水省の予定通り、辞任後1年も経ずに、大日本水産会会長に駆け込みで天下りしています。

事故米問題で国民がメデイアに期待したのは官僚の辞任ではなく「事故米問題を起こす体質と、この種の事故の多発を防げない理由となぜもっと早く摘発できなかったのか?の解明」ではないでしょうか。トカゲの尻尾切りで問題解決と考えるメデイアのあり方には疑問を感じます。

本質論を取り上げず、表層的な現象ばかり追う日本メデイアに対する欧米の評価は高くありません。

「情報操作に長けた日本の官僚は、リークを含め永年にわたり報道機関を使って世論操作をして来た。日本の官僚と報道の関係は母子関係に似ており、官僚は情報と言う乳を報道機関に与える代わりに、ギルド的閉鎖性を持つ報道機関は、官意に反する報道はしないと言う相互依存関係を築いて来た。この慣習に慣れた日本の記者は官の情報を民の情報より信用する傾向が強く、官僚の情報操作を見抜けなくなって仕舞っている。」田勢記者の反省の弁にも通ずる見方です。

米国の或る高名なジャーナリストは「社会正義に溢れた強力な調査報告記事程、ジャーナリストが社会に貢献出来る手段はない」と述べています。

この精神が、逮捕を恐れず徹底的に政府の行き過ぎを調べ上げたヴェトナム戦争を巡るエルスバーグペーパーや、ウォーターゲート事件の内幕を暴いたワシントン・ポストの二人の記者の記事、最近ではチェニー副大統領の国家安全保障に関する政治的リークを暴いた記事などです。

それでも、欧米の報道の質の低下を嘆く声と共に、報道の質の低下が国民の知る権利を制限すると言う論議が高まっています。日本の現状と比べて論議する価値があるのではないでしょうか。

岡田外相は、外務省での記者会見には「日本新聞協会」「日本民間放送連盟」「日本雑誌協会」「日本インターネット報道協会」「日本外国特派員協会」の各会員都、「外国記者登録証保持者」フリーランス記者も認める方針を打ち出しました。此れも記者クラブによる報道規制解除の動きです。

新聞業界自ら報道規制をした実例は数多くあります。その典型が、2002年の「産経新聞の駅売り即売版のみ新聞休刊日発行」事件です。同業他社はすぐさま妨害に入り販売を中止に追い込みました。これは、他の業界であれば犯罪行為に属する不当競争行為です。新聞休刊日制度も、国民から年間12日も知る権利を奪う悪習ですが「究極的な知る権利の保有者である国民」に「知らせる義務」を持つ報道界は如何応えるのでしょうか?

「我々は、ありの侭の事実を伝えるだけで、自由と民主主義が正しいとか、社会主義や全体主義は悪いなどと言う心算はない。両方の事実を有りの侭に伝えさえすれば、誰でも自由と民主主義を選択する事は間違いない」これはCNNの創立者であるテッド・ターナー氏の言葉です。

日本が、開かれた報道社会のもとで、多くの情報選択を享受出来る日はいつ来るのでしょうか? このままでは、CNNの様な外国企業が日本国民に豊富な選択を与える事で、日本の報道界を席巻する可能性も否定出来ません。

民主党政権の施策は、報道規制どころか閉鎖的な悪習を破り報道の開放、自由化を通じて選択の幅を増やし、説明責任を持つ当事者が情報を開示する事で世論操作の防止を目指している様に思えます。競争の激化を恐れた報道界が、事務次官記者会見の廃止を機会に、「報道規制反対と言う名目で、報道の自由化に抗議をした」というのであれば、それなりに理解は出来る気もしますが…。

ニューヨークにて 北村隆司

コメント

  1. masboku より:

    私も筆者の意見に賛成です。10年以上英米で過ごしてきた経験を通していつも感じてきた日本のメディアの官僚支配、閉鎖性、これこそが「日本の常識は世界の非常識」なる極めて不名誉な現状の元凶でしょう。通産省の北畑元事務次官の数々の「とんでも発言」などをみるにつけ、官僚にとってマスメディアが国内だけに閉じていればいるほどアカウンタビリティーを見かけ上は保ちやすいという滑稽極まりない状況に辟易させられてきました。つまり国内だけに通用する世論(しかもこれも彼らがコントロールしている)にのみ彼らは答えていればよかったわけですが、そんなものは本当の意味でアカウンタブルとは言えないのです。記者クラブが開放されるようなことがあると世界的に普遍的な納得性を意識しなければならなくなる、これは旧来の官僚たち、それと彼らに完全にベッタリだった既存メディアにとって非常に都合が悪いことなのです。世論が既得権益に過度におもねる既存メディア(老害ナベツネのようなもの)に操作されるような状況は即刻改正してほしいと心から思います。

  2. satahiro1 より:

     
    「情報操作に長けた日本の官僚は、リークを含め永年にわたり報道機関を使って世論操作をして来た。日本の官僚と報道の関係は母子関係に似ており、官僚は情報と言う乳を報道機関に与える代わりに、ギルド的閉鎖性を持つ報道機関は、官意に反する報道はしないと言う相互依存関係を築いて来た。この慣習に慣れた日本の記者は官の情報を民の情報より信用する傾向が強く、官僚の情報操作を見抜けなくなって仕舞っている。」…元日経新聞記者田勢康弘氏

    「重要省庁では朝の「事務次官ハコ乗り」まで、定例化しているところもある。次官宅へ朝回りしても、十分な時間が取れないため、次官の車に代表社が2人ぐらい同乗する。役所に着くまで、車内で「懇談」を行う。その結果は同乗した代表社の記者が各社に伝えるという仕組みだ。
    「談合なれあい」などと批判されようとも、メディア側としては、官僚トップから具体的な話を聞く機会が多ければ多いほど、国民の知る権利を担保することになる。中央省庁を日常的に取材しているメディアは、それほど濃密に取材対象とかかわっているのだ」…元産経新聞記者花岡信昭氏

    民主党はこの”官僚とメディアの不適切な関係”を、どこまで打ち破ることができるのだろうか?