記者クラブ問題は民主党政権の本物度を測るバロメーターだ

*今月から毎週木曜日に、ゲストブロガーの記事を掲載します。

ビデオニュース・ドットコム代表/ビデオジャーナリスト 神保哲生

民主党は野党時代からすべての記者会見をすべてのメディアに開放してきた。こんな当たり前のことが強調されなければならないところに、現在の日本のメディアが抱える問題の深刻さが滲み出ているのだが、少なくとも野党時代の民主党はそのことの重大さを認識していたように見えたし、政権を取ったら政府の記者会見も開放することを公然と約束していた。
 
ところが、民主党が政権の座につき、約束通りすべての記者会見がオープンになるかと思いきや、どうしてどうして、今それが方々で難航したり頓挫したりしている。なんと言っても、選挙前の記者会見で繰り返し記者会見のオープン化を宣言してきた鳩山首相自身が主を務める首相官邸の記者会見からして、今のところ開放されていないのだ。
 
民主党を継続的に取材してきた非記者クラブメディア所属のぼくのような記者にとっては、昨日まですべての記者に開放されていた鳩山さんの記者会見が、政権を取ったとたんに突如として扉が閉ざされ、自民党政権時代と同じ記者クラブ加盟社だけを対象とする内輪の記者会見になってしまったのだから、残念としかいいようがない。
 
しかし、ここで強調しておきたいことは、記者クラブ問題や記者会見の開放問題は決してメディア業界だけの問題ではない。これは民主党が掲げる数々の改革が本当に実現できるかどうかを推し量る絶好のバロメーターとなる。既得権益たる大手メディアや省庁内に巣くう情報非公開官僚の抵抗によって、野党時代に当たり前のようにできていた記者会見の開放すら頓挫するようであれば、民主党が掲げる政策を実現する上で不可欠となるもっと大きな既得権益の解体などできるはずがないからだ。


●日本の記者会見は世界の非常識

通常日本で記者会見と呼ばれているものは、国際標準ではとても記者会見とは呼べないでたらめな代物だ。日本の記者会見は政府や政党が記者クラブと呼ばれる、主要新聞とテレビ局と2大通信社のみが加盟できる任意団体を対象に行われている、いわば内輪のセレモニーに過ぎない。しかし、それがセレモニーに過ぎないことがこれまでばれずに済んだのは、その実態を当の主要メディアが一切報じてこなかったからだ。
 
つまり、ここにきて記者クラブ問題が俄然世間を騒がせるようになっている理由は、単に政権交代で記者会見の開放を公約している政党が政権についたからではない。記者クラブ制度という名の、政府と主要メディアがもたれ合うインチキなできレースの一方の受益者である主要メディアが、どんなにこの問題に頬被りをして誤魔化そうとしても、ネットを通じてその実態が多くの市民の知るところとなってしまうからなのだ。政治の構造的な変化と同時に、メディアの構造的な変質が、長らくメディア問題の奥の院に座してきた記者クラブ問題を、白日の下にさらけ出した結果と言っていいだろう。

●岡田氏の英断
 
民主党が記者会見をすべてのメディアに開放したのは2002年。当時幹事長代理だった岡田克也氏が、日本の政府の記者会見が記者クラブのみに開放されていることで、政治とメディアの間にたちの悪い癒着を生じさせていることや、記者会見から海外メディアを排除することで国際社会から日本が理解されにくくしていることを悟り、自らの会見をすべてのメディアに開放したのが、ことの始まりだった。当時はまだ岡田氏が代表や幹事長などの要職に就く前のことで、岡田克也という名前もほとんど知られていなかったので、無名の幹事長代理が記者会見をすべてのメディアに開放すると言い出しても、誰も気にもとめなかった。その分、岡田氏の会見の開放に対して、メディアからの反対や抵抗がなかったことは、今にしてみれば幸いだった。
 
その後岡田氏が幹事長、代表と党内で出世していく過程で、それぞれのポストで記者会見を開放していったため、岡田氏が代表に就任した時点で、民主党のすべての記者会見がオープンになった。2005年の郵政選挙で民主党が小泉自民党に大敗を喫し、岡田代表が引責辞任をした後も、一度開いた記者会見の扉をもう一度閉めることは難しく、また閉めなければならない理由もなかったために、岡田氏の後を継いだ前原、小沢、鳩山の各代表の下でも、記者会見のオープン化は維持された。だから、実は民主党では岡田氏以外の幹部は、自分の党の記者会見がなぜ記者クラブ以外にも開放されているかについて、その詳しい経緯は恐らく誰も知らないに違いない。自分がその地位に就き、最初の記者会見に臨んでみたら、そこには既に記者クラブ以外のメディアも大勢入っていたといったところだろう。
 
しかし、今にしてみると、記者会見が開放になった経緯を詳しく知る必要はなかったにしても、なぜ記者会見が開かれていることが重要なのかについては、民主党のすべての議員にもう少し自覚的になっておいてもらう必要があったかもしれない。
 
なぜならば、民主党が政権の座についた今、閣僚や副大臣になった民主党の議員が、これまで党では当たり前のように行われていたオープンな記者会見を開こうとすると、役所の官僚からも、省庁に設置された記者クラブからも、ありとあらゆる弾が飛んでくる。ところが、どうも彼らは必ずしもその弾を躱すことができていないようなのだ。
 
飛んでくる弾というのは、例えばこんな具合だ。「大臣、セキュリティはどうするのですか。フリーの記者とか言って、どこの馬の骨ともわからぬ人を記者会見に入れて、靴でも投げられたどうするのですか」、「新たな通行証のシステムを構築するのに数ヶ月はかかります。おっと、そのための予算は今年度は計上されていません」、「記者会見場はキャパシティに限りがあります。大量の記者が押し寄せてきて大混乱に陥ると、会見が開けなくなるかもしれません」、「国会会期中の記者会見は院内(国会内)で行うのが慣例です。しかし、我が省がOKをしても国会の警務課がOKをしなければ、記者クラブ加盟社以外の記者は院内には入れません」等々。
 
かと思うと、もう一方の利害当事者である記者クラブは、こんなことを言ってくる。
「これまで記者会見は記者クラブが主催してきました。記者クラブが主催する記者会見にだれが参加できるかを決める権利は記者クラブ側にあります。大臣が勝手にオープンなどと言われても困ります」、「記者会見の主催を記者クラブ側から政府側に移すと、政府が勝手に記者会見をキャンセルすることが可能になり、国民の知る権利が制限されます」、「フリーの記者などを入れて、素人丸出しのくだらない質問を連発されると、記者会見の質が落ち、結果的に国民の知る権利が制限されます」。と、そして挙げ句の果てに、こんなことを言い出す。「記者クラブの会見の運営ルールは私たちが決めますが、大臣が他の人たち向けに別に記者会見をやられるのは大臣のご自由です。」
 
いずれも荒唐無稽なくせ弾で、よく考えてみれば、この程度の脅し文句で一部のメディアだけを優遇する記者クラブ制度が正当化できるはずもないのだが、普段からきちんと理論武装をしていないと、「確かにそうだな」と納得させられてしまう政治家も少なからずいるようだ。現に、記者会見の開放を宣言した亀井静香金融担当大臣は、旧大蔵省に巣くう悪名高き「財政研究会」なる記者クラブが記者会見の開放を拒んだために、記者クラブ向けの会見とは別にもう一度同じ記者会見を非記者クラブ加盟社向けに実施するハメに陥っている。(記者クラブに開放断られて 亀井氏「もうひとつの記者会見」断行
 
ちなみに、外務省がどのようなガイドラインで記者会見を開放したかを、こちらでご参照いただければ、これらが単なるくせ弾に過ぎないことをご納得いただけると思う。(外務省記者会見ガイドライン、および神保ブログ「記者会見の開放は簡単ですよ」へリンク)
 
どうも、記者会見の開放を実際に手がけた岡田氏以外は、十分な理論武装ができていなかったために、そうした弾の避けきれずにいるみたいなのだ。岡田氏の外務省だけが、他の省庁に先駆けて記者会見をオープンにできたことは、決して偶然ではないということになる。

●本質は記者会見の開放にある
 
ぼく自身はAP通信の記者として日本に赴任した1989年以来、記者クラブと足かけ20年も戦ってきているので、記者クラブ問題について喋り出したら、止まるところを知らない。しかし、スペースの問題もあるので、最後に今回の記者クラブ問題の議論で、一つだけ抜け落ちている点を指摘しておきたい。
 
それは、そもそも記者クラブ問題というネーミングに、落とし穴があるということだ。記者クラブが一部の主要メディアの特権であり、それがメディアへの新規事業者の参入障壁を著しく高くしていることは言うまでもない。しかし、記者クラブ問題におけるメディアの立場が、あくまで副次的な受益者に過ぎないことは、肝に銘じておく必要がある。要するに記者クラブメディアは、制度のお零れをちょうだいしているに過ぎないということだ。
 
記者クラブ問題の本質は、政府の情報公開だ。そして、それは政府の記者会見の開放問題に置き換えることができる。もともと記者クラブなる制度が形成された経緯も、政府がなかなか情報を公開しようとしないため、メディアが記者クラブという形で徒党を組んで、力を合わせて政府に記者会見を要求したことにあった。要するに労働組合よろしく、団体交渉である。少々余談にはなるが、かつては弱者の味方だったはずの労組が、今や既得権益の巣窟になっていることとのパラレルは興味深いではないか。
 
記者クラブが伝統的に記者会見の主催が自分たちであることにこだわる理由は、元はといえばこの記者クラブの起源にさかのぼる。
 もしぼくが権力者で、権力の濫用によっておいしい思いをしているとすれば、本当はできるだけ情報など公開したくないはずだ。しかし、民主主義とか言って、憲法だの情報公開法だの何だので、ある程度の情報は公開しなければならなくなったら、どうするか。そこで出てくるのが、有史以来世界中の統治権力の常套手段とも呼ぶべきdevide and rule、つまり分断統治だ。要するに、特定のメディアを囲い込み、そこに特権的なアクセスを許し、それを優遇する一方で、優遇しないメディアとの間で差別化を図る。権力にとっては不都合な存在になりかねないメディアをそうして分断するわけだ。そうすれば、優遇されたメディアは、一見特権を享受しているように見えて、実は下手をすれば特権を失う脆弱な地位に置かれることになり、権力の監視能力は著しくは低下する。また、特権を得て身近に置かれることになったメディアと統治権力の間には、本来権力をチェックすることが第一義的な責務であるはずのジャーナリズムにとっては、ありとあらゆる好ましくない性質が生じる。それは、癒着であり、友好関係であり、馴れ合い、談合、同胞意識、運命共同体意識、選民意識、依存、受け身の姿勢、取材をしない体質などだ。しかも、特権を得たメディアはメディア企業としては明らかに業界内で優越的な地位を享受できるため、企業としては大きく発展することになる。他方、特権から排除された雑誌やネットメディアやフリーランスを含む独立系のメディアは、ゲリラだの在野精神だのと強がってみても、記者クラブが壁となって政治、経済、社会のあらゆる分野の情報源への直接のアクセスが制限されてしまうため、結局のところ報道メディアとしても企業としても、新聞やテレビと比べれば、二流三流の地位に甘んじることになる。これもまた権力側からすれば好都合となる。
 
要するに、権力側としては特定のメディアを囲い込むことで、彼らが自分たちに刃向かってこないような体質を作り出すことが可能になり、しかも、それと同時に敵対的なメディアを弱体化させることにも成功するという一石二鳥、一石三鳥のおいしい制度なのだ。
 
これは逆の見方をすれば、なぜ記者会見がオープンでなければならないかを、雄弁に語っていると見ることもできる。記者会見がオープンになり、記者会見への参加が記者にとって当然の権利となれば、記者は記者会見でどんな質問でもできるようになる。特権的に記者会見に出席している人たちが、同じく特権の享受者しか参加していない記者会見の場で、わざわざ権力者が嫌がるような質問をするだろうか。また、権力者に嫌われることで、特権を失ったり、制限を受けたりすることがあり得てしまうし、実際に記者クラブ内ではそういうことが日常的に起きている。ところが、もし記者会見がオープンになれば、どんなに嫌がられる質問をしても、記者会見に参加できなくなる心配だけは無くなるのだ。権力者に嫌われれば、一緒に飯を食いに行ったり、飲みに行ったりする機会は失うかもしれないが、そもそもメディアと権力の間のそんな馴れ合いの関係自体が問題なのだ。聞きたいことがあれば、すべて記者会見で聞けばいいだけのこと。つまり、記者会見がオープンになると、記者会見が真剣勝負の場となるということだ。
 記者クラブ問題は名前に偽りありと書いたが、実際政府側が記者会見を開放してしまえば、記者クラブ問題など雲散霧消する。よく勘違いした人が、記者クラブ解体論などをぶっているが、それは違う。記者会見が開放されてさえいれば、大手メディアが記者クラブなどという親睦団体を作ってクラブごっこに勤しんでもらっていても、ちょっと気持ち悪い人たちだなとは思うが、ぼくたち記者クラブの非加盟社には何の被害も生じない。だから、「記者クラブ問題」というのは、実はニックネームのようなもので、その本名は「政府の記者会見開放問題」なのだ。にもかかわらず、世の中がこれを記者クラブ問題と呼んでくれることで、いやもしかするとそう呼ばれるように仕向けることで、なぜか批判は記者クラブに集中し、その奥に潜む黒幕は批判をされることもなく、実は最大の利益を享受しているのだ。
 
この本質を見誤ると、えらいことになる。岡田外相の下で外務省が記者クラブを開いたように、もはや記者クラブが自分たちの情報非公開のバリアーや煙幕としては使えないことを悟ると、統治権力はまた別の手段を探し始めるにちがいない。いや、もう次の煙幕を見つけているかもしれない。それは、何も日本が特別なのではなく、それが有史以来の統治権力の特徴であり、もともと権力に内包する要素に他ならない。唯一違いがあるとすれば、他の多くの民主主義の国は、それを前提として制度を設計し、あらかじめメディアにそれを監視する機能を持たせているのに対し、日本の記者クラブ制度や他のメディアの特権的制度を見る限り、日本は残念ながらそのリスクに対する自覚がはなはだ脆弱と言わざるを得ない。
 
いずれにしても記者会見の開放は、単にそのための手段が一つ与えられたにすぎない。手段は活用されなければ意味がないし、そもそも一つ手段を手にしたくらいで安心していると、すぐにまた記者クラブのように権力に取り込まれて、気がついたら権力の片棒担ぎをさせられる制度が作られてしまうことは請け合いだ。

コメント

  1. mtcrk より:

    メディア内部の方の貴重な熱血の報告有難うございます。参考になることばかりで、大手既存メディアが語ってこなかったことですね。ただ一つ、どうしても気になるというか、一般国民を迷わせるのは、記者クラブの問題ではなく、メディアが権力の片棒担ぎをさせられることが問題だ、という結論です。官僚は確かに各業界への権限は、あるのかもしれません。国の運営のために画策をすることもあるかもしれません。
    しかし友人、先輩、後輩、親戚、身内を含めて官僚もテレビ局員も身近にいますが、官僚のどこが権力者でしょうか。40代で汚い官舎に住み、激務で年収も1000万に満たない。片や民放は40前には現場を離れても年収2000万近く、休みも十分とれる。離職率が全てを表します。官僚は、自殺、うつもあり、転進も多い。民放で退社など30台以降聞いたことがない。官がメディアを利用するのではなく、メディアが特権死守のために官を利用している要素の方がはるかに大きいのでは。神保さんのような男気のあるフリーの方を応援したいことには変わりありません。

  2. ett1214 より:

    一番問題なのは、警察記者クラブ。 警察の不祥事は取材すらしない。 日本では大手新聞、クロスメデイアが伝えなければ、なかったことになってしまう。 志布志事件も当初は一切報道されなかった。

    足利事件も、菅家さんは変態爺さんのように報道された。 毎日放送の原田記者は大阪府警の逆鱗に触れて、報道から制作へ飛ばされてしまった。 国民が警察からひどい目に遭わされても、社会に訴えることすら出来ない。 大手新聞社は取材にすら来ない。 電話で話を聞いておしまい。 特落ちが怖くて、記者クラブ出入り禁止が怖くて、ひたすら隠蔽に協力する。

    これでも、記者クラブは潰さなくて良いのですか? 記者クラブがあると、国民はひどい目に遭うのです。 弱小マスコミが、いくら騒いでも、どれほど真実を伝えようとしても、冤罪被害者は救われないのです。

  3. leoabby111 より:

    鳩山さんが首相に指名された日の朝日ニュースターのニュースの深層に神保さんが出ておられて、上杉さんと「まるでお葬式」と言われて非常にある意味興奮しておられたのがとても印象的でした。

    記者会見が一般に公開されないとういのは、私たち国民にとっての不利益のなにものでもないと思います。
    なぜ この問題がもっと世の中に広がらないのでしょうか?
    それはやはり、この国の情報を大メディアが何らかの形で抑え込んでいるからなのではないでしょうか?

    そもそも大記者などという御仁にあこがれて、首相や党幹部とお食事をしたり、「先日、首相と話をしましたが 」などとテレビでわざわざお話になる神経からしてジャーナリストの資格なしと!と私には思えるのですが。

    あらゆる人々の意見を聞いて、大方の人が共通に持っている認識ならどうやらそれが真実かもしれない、というくらいの慎重さが”情報”というものの扱いには必要なのではないかと私は考えています。

    外務省だけではなくほかの省庁、とりわけ官邸での一日でも速い記者会見開放を望んでいます。

  4. sponta0325 より:

    神保さま。

    記者クラブの問題は、取材される側の問題であるととにも、取材する側の問題でもある。したがって、取材されるが側(今回は政権政府・民主党)だけの責任を追及する姿勢は、巷間の支持を得られないのではないでしょうか。
    神保さんの所作も結局のところ、メジャー媒体と非メジャー媒体の問題を先送りして、すべてを取材される側である民主党の責任を追及している。と、私には考えられてなりません。
    メディアスクラムなどといいますが、スクラムを無くす努力をジャーナリズムの側はしているのでしょうか。

    象徴的なことでいえば、酒井法子氏の会見で、「病院への迷惑があるのでストーカーな取材はやめて欲しい」とのお願いがあったにも関わらず、その直後に酒井氏の乗った車をヘリコプターやバイクで追走する。そのことに対して、スタジオのアナウンサーは批判しない。
    そのような自己都合を優先するジャーナリストは、一般民間人にとっては価値も無いもの。と、映っています。

    記者クラブ解放は、その入会基準の再考によって、ジャーナリストの側からも実現可能であることを隠蔽してはならぬ。のではないでしょうか。