自然科学モデルの限界 - 『行動経済学』

池田 信夫

★★★★☆(評者)池田信夫
行動経済学―感情に揺れる経済心理 (中公新書)
著者:依田 高典
販売元:中央公論新社
発売日:2010-02-25
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このごろ行動経済学についての本がたくさん出るようになったが、ほとんどはカーネマン=トベルスキーなどの実験を日常生活に応用してアノマリー(特異性)の実例をあげるもので、いささか食傷だ。本書はこうしたおもしろ本とは違って、大学の講義録をもとにして行動経済学の歴史を振り返り、理論的にまとめた入門書である。

意思決定理論の歴史は古く、パスカルやベルヌイにさかのぼる。こうした理論において最大の問題は、不確実な未来のもとでどう決断するかということだったが、フォン=ノイマン以降の期待効用理論は、これを数学的に操作可能な公理系に単純化してしまった。それによってゲーム理論などの体系的な理論ができたが、エルズバーグのパラドックスやアレのパラドックスなど、現実との齟齬が生まれた。

プロスペクト理論などの行動経済学は、こうしたパラドックスを解決する理論をめざすものだが、今のところ新古典派やゲーム理論のようなシステマティックな理論にはなっていない。それを脳科学で基礎づけようとする「ニューロエコノミックス」にも批判が多い。一時はたくさんの実験が行なわれてにぎやかだった行動経済学も、最近は理論的に行き詰まっているようにみえる。本書でも著者のオリジナルな研究にもとづいてアディクション(中毒)などの実例が紹介されているが、理論的説明はアドホックといわざるをえない。

演繹的な理論を実験で検証して修正するという手続きは、物理学をモデルとする自然科学の方法論である。かつて新古典派経済学は、古典力学にあこがれてその演繹的な体系をまねたが、経験的テストには落第した。他方、行動経済学は実験による検証という方法論はまねているが、演繹的な理論がない。

しかしこういう不備は、自然科学をモデルにしているためだ。人間の複雑な行動が古典力学のように単純な理論で説明できるはずがないし、実験によって日常の行動が再現できるわけでもない。そもそも人間の意思決定が「価値関数」のような数値として表現されるという発想が、人間を「快楽を最大化するロボット」と考える功利主義の変種である。人間を本質的に理解するには、認識論レベルから見直す「パラダイム転換」が必要なのではなかろうか。