400年ぶりに起きているデフレと長期不況(利子率革命)

藤井 まり子

藤井 まり子

「利子率革命」とは、デフレと長期不況が異常に長く続く現象を指す。

1997年9月以降、日本の10年物国債の利回り(金利)は、2.0%以下で推移していて、今年で13年目に突入している。

この2.0%以下という国債の異常な低金利は、今現在の近代資本主義システムを維持してゆくには、困難なほどの低金利(=利潤率)である。なぜなら、名目長期金利が2.0%以下にまで低下したということは、長期の期待インフ率がゼロになったことを意味しているからである。


ところで、今現在の日本の13年間にも及ぶ「利子率の2.0%以下までの異常な低下」「利潤率の異常な低下」は、近代資本主義制度のもとでは起きなかった「極めて珍しい現象」である。

そこで、金利の歴史(金利史)をひもといてゆくと、なんと400年前の中世末期のイタリア・ジェノバで、こういった「国債の金利が異常に低い時代が20年もの長きに渡って続いたこと」が発見される。

400年前の中世末期の17世紀初頭において、「利子率革命」(=デフレと長期不況が長期に及ぶ現象)が起きていたのである。

そして、このおよそ400年前に起きた「利子率革命」の時代の前後を丹念に調べてゆくと、明らかに、4~500年前においても、様々な点で「歴史的大転換」が起きていることが分かる。
この4~500年前に起きた「歴史的大転換」(=「中世が終わり、近代が始まる)時代は、20世紀終わりから21世紀にかけて現在進行中の「歴史的大転換」と、様々な側面で共通している点が極めて多い。
類似点が多すぎるくらいに多いのである。

中世の終わりの17世紀初めのイタリア・ジェノバでは、およそ20年間、イタ リア国債の金利が2.0%以下の時代があった!

では、16世紀半ばから17世紀にかけての「中世の終わり」とは、どのような時代であったのだろうか。

当時の覇権国家はスペインで、イタリアはスペインに追随していた。
精神面では、当時はまだカソリック教会が影響力を持っていたが、辺境のイギリスやドイツでは宗教革命が起き始めていた。
中世荘園制度での主力産業は農業であったが、「中世の終わり」には、農業はあまり儲からなくなっていた。利潤率がひどく低下していたのである。
その結果、中世荘園制度を束ねる中世カソリック教会も、その影響力を弱めていた。

以下の文章を、
・中世覇権国家の「スペイン」を、現代の覇権国家「イギリス・アメリカ」に、
・中世スペインに追随することによって最も栄えていた「中世イタリア」を、「現代の日本」に、
・中世末期に歴史の表舞台に躍り出始めた当時の「新興国:イギリス・オラダ」を、現代の「新興国:中国・インド・ロシア」に、
・農業を中心にした「中世荘園システム」を、現代の製造業を中心にした「近代資本主義システム」に、
置き換えて読むと、
4~500年前の中世末期のヨーロッパと、近代資本主義システムが崩壊しかけている21世紀とが、不思議なほどに共通点が多いことに、気付かされる。

16世紀半ば以降、中世スペイン・イタリアでは土地バブルが幾度も幾度も起きている。
16世紀半ば以降のスペイン・イタリアでは、国内の富裕層は、資本を危険な(野蛮な)海外企業に投資するよりも、自国内の土地への投機を好み始めていたのだ。

同じ時期に、イギリス・オランダは海洋国家(海賊国家)として、海へ海へと出かけてゆく。
新海洋国家:イギリスは、1600年に東インド株式会社を設立する。
中世末期のスペイン・イタリアは、イギリス・オランダが海外で収奪的なな植民地政策を推し進めているのとは対照的に、「内向き志向」になっていたのだ。

さらに、中世末期のスペイン・イタリアでは、土地バブルと同様に、財政危機も幾度も幾度も繰り返し起きている。
16世紀後半および17世紀では、最も成功した中世スペインおよびイタリアという国で、最もひどい財政破たんが幾度も幾度も起きていたのである。

財政破たんが起きるということは、その国の主力産業(当時は農業)が衰退していると言うことを意味している。
当時最も繁栄の頂点にあった国々では、衰退期が始まると、自国内にこれといった優良な投資先がなくなるので、自国内の土地が繰り返し繰り返し投機対象になってしまっていたのである。

かようにして、「中世ヨーロッパの終わり」には、世界経済の覇権が、スペイン・イタリアからイギリス・オランダへとゆっくりとシフトしてゆく。
この「中世から近代へとシフト」する時代、「覇権国家のシフト」も始まり、「中世荘園制度から近代資本主義制度へのシフト」も始まる。精神面では「ローマカソリック教会の衰退と宗教革命(=精神革命)」も始まる。

それでは、中世の覇権国家:スペイン帝国の国債を大量に買い支えていた当時のイタリアでは、最終的には何が起きたのだろうか。

中世イタリアでは、17世紀初頭に、イタリア・ジェノバ国債の金利2.0%以下の「異常な低金利」が、なんと20年もの長きにわたって続いたのである。
繰り返しになるが、当時の主力産業は、農業であった。
中世イタリアでは、山のてっぺんまで農業開発が進み、国内の隅々までワイン畑になっていた。
あたかも、今の日本が国土の隅々までコンクリートと高速道路と工場とで埋め尽くされているように、だ。
イタリアの農業は飽和状態になっていたので、利潤率は低下。
イタリア国債の金利も、20年もの長きにわたって2.0%以下になったのである。

ある日を境に、中世イタリアのメディチ家は、あまりに低金利の国債を買い続けるのが馬鹿馬鹿しくなって、東インド株式会社の株式を購入し始める。(ちなみに、当時の東インド株式会社の株式の配当は、18%もあった。)

このとき、メディチ家所有の大量のスペイン国債もイタリア・ジェノバ国債も売られ、イタリア・ジェノバ国債の金利も、ある日を境に、およそ6%近くまで急騰することになる。
そして、スペインもイタリアも、その後は経済史の表舞台から姿を消すことになる。

かように、「利子率革命」を経て「中世」は終わりを告げて「近代」が幕開け、世界の覇権はスペイン・イタリアからオランダ・イギリスへとゆっくりと移動、「ローマカソリック教会支配の中世荘園制度」から「近代主権国家による近代資本主義システム」が確立されてゆくのである。
(続く・・・)

【追記】イタリア・ジェノバと記すところを、一か所だけイタリア・ミラノと誤って記してしまいしたので、訂正しました。
ちなみに、こちらのアーカイブは金利史の話題をしております。