劣化ウラン弾、クラスター弾、地雷等の武器規制論議で忘れ去られていること―日本流の戦争方法についての根本的な議論― 站谷幸一

站谷 幸一

 日本の安全保障論議は歪みがちである。それは時代という縦軸であれば、戦前戦後に渡ってであり、思想という横軸であればリアリスト、リベラリスト、保守派、革新の皆々である。そして、その代表例が外交と防衛の混同であることは既に述べた。(参照:https://agora-web.jp/archives/861220.html)
 だが、外交安全保障の論議では、他にもしばしば忘れ去られている視点が存在する。それは、民主主義、国民の生命財産、価値観を保持しながら、日本の戦争方法を如何に確立するかということである。我々は戦前戦後、そして左右の思想を通じて兵器論や技術論に拘泥するあまり、戦争の全体像や戦争方法をデザインすることを忘れてしまっている。特に、これが顕著に出ているのは、劣化ウラン弾、クラスター弾、地雷等の武器規制論議である。そこで、本稿では、劣化ウラン弾、クラスター、地雷等の武器規制論議に欠けている視点を指摘することで、わが国なりの戦争の全体像や戦争方法をデザインすることの必要性を主張したい。
 


 劣化ウラン弾、クラスター弾、地雷の廃止を主張する論者は、往々にして、その非人道性を強調し、規制を訴える。他方、それら兵器の維持を唱えるものは、防衛上の利点を声高に唱える。それらは、島国である我が国は、海岸線が長いという地理的特性を持つため、通常の砲弾等では対処できない程の大規模広範囲に及ぶ侵攻に対しては、沿岸地域に短時間で大量の弾薬を集中させる必要がある。そのために、地雷・クラスター弾は、この点で特に有用であると考えられてきた。また、論者によっては、日米同盟への影響を指摘する。例えば、日米共同作戦時の相互運用性(interoperability)の問題である。例えば、クラスター弾の条約で日本国内でのクラスター弾の使用・生産・貯蔵が禁止された場合、在日米軍の攻撃力の低下はむろん、日本は米軍への支援もできなくなるといった危惧である。(クラスター弾規制を取り決めたオスロ条約においては非締約国との共同軍事作戦等への関与は認められることとなったので、これは結果的には杞憂だった。)
 しかし、こうした議論は、どのような戦争をいかなる手段で遂行するのか、といった前提のすりあわせがなされていないという意味で不毛である。勿論、議論事態は重要だが、それは、想定される戦争においていかなる方法を使用するかが欠けていては何の意味も無い。例えるならば、冷戦末期の北海道の寒村の一家の議論で考えてみよう。この家庭で父親は、全面核戦争に備えてスイス製巨大核シェルターの購入を主張する。一方で、母親は、巨大核シェルターの建設は自然を破壊するし、恥ずかしいという道義的な問題から主張する。それに対して、父親は極寒の時でも使えるし、防御的な装置だからと訴える。それに持っている人も世界にはいると。方や母親は、一家の財政難を理由に反対する。この双方の議論の不毛さはお分かりだろう。父親は、1.そもそも北海道の片田舎にまで、核兵器が炸裂するような状況は、明らかに全面核戦争を意味する。となると、地球上が破滅している状況であり意味が無い、シェルターに逃げ込む前に爆発したらどうするのか、2.極寒でも使えるというのはストーブ他の安価なオプションを考えていない、3.他の地域での状況とごっちゃにしている、4.一家がそこまでして生き残るという合意を取り付けていない、5.そもそも、この親父はどのような生活を営むかの前提が無い、6.核戦争の蓋然性と財政の有限性のバランスを失念している、という問題点を指摘できるからだ。また、母親の方は、1.この親父に核シェルターを断念させても、親父が核シェルターをほしがっている以上、別の方式のシェルターを購入する可能性を考えていない、2.一家の安全をどのように守るかを考えていない、3.そもそも同義的に問題がある戦争は問題なのか?と疑問が湧く。
 こんなことを逐一書き連ねるのは、馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれない。しかし、劣化ウラン弾、クラスター弾、地雷等の武器規制論議では、こうしたかみ合わない議論が展開されている。事実、こうした兵器を維持すべきだと単純に主張する論者には、親父の論議への批判がそのまま適用できる。1.クラスター弾を航空機によって投下する状況は、広範囲な着上陸侵攻が行われている状況である⇒つまり、航空自衛隊が阻止に失敗した状況である⇒航空自衛隊及び海上自衛隊の戦力は壊滅している公算が高い⇒では、クラスター弾を誰が投下するのか?航空優勢を失った状況で、クラスター弾を発射可能なMLRS等の陸自の兵力を満足に沿岸部に展開できるのか?2.安価な誘導兵器のJDAMの方が良いのでは(防衛省はこれを選択した)、3.日本と米中韓は違うのでは?着上陸侵攻の可能性は低いのでは?むしろ漁船で工作員が侵入する可能性が高いのでは?4.そもそも、クラスター弾が投入される状況は、着上陸される場合⇒航空自衛隊も海上自衛隊も壊滅している⇒現在の日本が国家として、その時点でも戦争継続するのか?(残念ながら、国民はついてこないだろう)、5.全体に関係するが、どのような戦争を想定し、いかなる戦争方法を戦うかが冷戦時の惰性ではないか、6.確かに着上陸侵攻の可能性はゼロではないが、財政赤字及び経済状況は供に深刻であり、もっと優先順位の高いものに回すべきなのでは?、というように。単純な規制賛成派も母親の議論が同じように援用できる。1.クラスター弾を断念させても、必要性は代わらないのだから、政府は、別の方式の兵器を企業に発注するだけでしかない⇒つまり、規制賛成派が忌み嫌う軍需産業が儲かり、政府は血税を浪費する⇒結果的に、規制賛成派は軍需産業に協力し、国民の資産を失わせるだけではないのか?(事実、防衛省は代替兵器の発注を決定している)、2.そもそも安全保障観が抜け落ちているのでは?、3.では、非殺傷兵器もしくは少量破壊兵器を中心とする道義的な兵器のみで戦争を展開すれば問題ないのか?道義的な重要性が日本が行うであろう戦争における重要性は?と。
 これまでの賛成派、反対派への疑問には当たり外れはあるだろうし、私自身はどちらの意見が正しいかをここで論じるつもりは無い。ただ、こうした回りくどい論じ方によって、訴えたいのは、まず、我々はいかなる戦争を、どのような戦争方法によって戦うのかについてコンセンサスを形成するかが必要だということだ。このコンセンサスの必要性は、これまでに指摘した双方への疑問点をどのように判断すればよいかを考えれば明らかだろう。何故ならば、これまでに指摘した疑問点の可否を判断するには、どのような戦争を、いかなる方法で戦うかが必要だからだ。西側で主流の道義的な戦争方法を継続するのか、日本が遂行する戦争において、クラスター弾のような兵器は使うのか、もしくは使わない方法でも遂行できるのではないか、着上陸の蓋然性をどのように見積もるか、そういった、将来日本が将来直面するだろう戦争形態(もしかしたら大規模紛争ではなく、サイバー戦争かもしれない。もしくは先日の送電線による都内の交通パニックを引き起こすことを目的とした送電線の切断と弾道ミサイルによる攻撃を組み合わせるようなハイブリッド型戦争を仕掛けてくるかもしれない)を幾つか想定した上で、どのような戦争の方法によって戦うのかを決定しない限り、先にあげた議論の判断を下すことは出来ない。つまり、根本的な外交安全保障についての判断基準がないままに個別の議論だけが展開しているのである。
 しかし、我々は今も「新型のV-22オスプレイは落下しやすいので普天間基地への配備は問題だ」、「劣化ウラン弾は規制するべきだ」、「いや、相対的には劣化ウラン弾は安全なので必要だ」といった議論を一部の専門家を除いて繰り返している。興味深いことに我々は戦前もこういう議論をしていた。すなわち、日本の国力では明らかに対応できないことを無視して、総力戦を無邪気に受け入れ、精神力と工夫を言い訳の第一にしがちだったことである。付け加えるならば、もはや米国で10年も前に私語となったRMA、3年前から死語になったトランスフォーメーションやネットワーク中心型の戦争を、そうした根本的な議論を無視して得々と書いて議論している人間は、問題外である。まさしく、無邪気に総力戦概念を受け入れた旧軍軍人と同レベルでしかない。そんな議論、日本に応用できますか?それ以前に米国ですら、そんなの話していませんよ?エシュロンを20世紀のクリントン政権の時の話を持ち出しているのもそうだ。残念ながら、今は21世紀であるし、エシュロンに対する過大評価は明らかになっている。というより、彼の参考文献が日本語しかない時点で明らかだが。
 話を戻す。リデル・ハートは、第一次大戦における本来の戦略目的に見合わない甚大な被害を省みて、英国ならではの特性を生かしつつ民主主義的な理念を破壊しない「イギリス流の戦争方法」を編み出した。そして、それは現在の先進国の戦争方法の原型にもなったし、彼らの戦略の議論の基軸にもなっている。我々も同様に日本流の戦争方法を編み出して議論すべきだ。すなわち、いい加減、個別の兵器をどうするのか、武器使用の基準はどうするべきかといった技術的、兵器論的な部分からはじめる本末転倒な議論をやめて、まず、我々が直面する戦争は何なのか?そして、その上で、民主主義、国民の生命財産、価値観を保持しながら、日本という国の特性を生かした戦争方法とは何か。そのコンセンサスを形成してから技術的な話をすべきなのだ。日本流の戦争方法において、憲法九条のメリットが大きければ利用すればよい。デメリットが大きいなら捨てればよい。クラスター弾が不要もしくは無くても何とかなるならば捨てればよい。日本流の戦争方法に必需なら維持すればよい。それだけの話なのだ。だが、そうしなければ、我々は憲法九条や個別の兵器の可否について、滅びの日まで永久に論じ続けることになる。それは、立場を問わず誰もが望む議論ではないだろう。

付記
なお、日本が直面するだろう戦争像、戦争方法については、戦略研究学会の年報第5号「日本流の戦争方法」で複数の専門家によって議論されているので、ご興味のある方はお勧めする。また、繰り返しになるが、私はクラスター弾の可否について論じているのではないことをご理解いただきたい。いささか挑発的な内容になったことを批判対象の方々を含めて深くお詫びする。ただ、日本の安全保障論議が戦前戦後も右翼左翼も歪みが続いていることを言いたいが故なのだ。地雷が必要だという論者は、日本国内で地雷を敷設するような戦争をするのか、もしくはその状況になっても現在の日本が戦争を継続するのか、そして不要論者は、地雷が不要な戦争方法があるのか、それが彼らの嫌いな軍需産業を喜ばすことにならないのかを検討してから発言すべきではないか。ただ、それだけの問題提起でしかない。クラスター弾という「終わった」議論を持ち出した理由はそこにある。

コメント

  1. akiteru2716 より:

    素人感覚といわれるかもしれませんが、安全保障とは相手のある話であり、前提となる状況認識如何でなんとでも論じうる性格のものだと思います。
    コンセンサスが形成されれば、またその裏をかかれるのではないかという具合に、永遠につづく性質のものだと。
    站谷氏の主張の大前提となっている「将来来るべき戦争」という状況すら、コンセンサスは不可能と思われます

    危機は想定しようと思えばいくらでも悪い事態を想定しうるのに対し、用意できるリソースは限られるので常にトレードオフとなります。つまり何らかの事態が起きた場合は「あきらめるしかない」とならざるを得ないことが十分ありえます。
     しかもそのトレードオフは、こと平時にあっては福祉や教育、食料などこれまた広義で安全保障といえるようなものも含まれるので、さじ加減の範囲が無限大に広い。議論が分裂するというより、まとまるはずがない気がします。