たとえ国家は窮乏するといえども国民は窮乏してはならないということ - 矢澤豊

2010年05月27日 01:59

...なお、「国家」という語が何度も出てきたから簡単に説明しておきましょう。

中国ではこの語は二千年以上前からあり今もあって、意味にさしたる変化はない。そしてそれは、今の日本人が漠然と考える「国家」とはだいぶちがう。

中国において「国家」というのは、皇帝とその統治機構を指す語である。

中国にはここ千年以上、貴族というものはいない。固定した支配階級もない。皇帝一人のみが、全権を一手に掌握する唯一至高の存在である。

もっとも、皇帝(の位にある生身の一人の男)が国家の全権を握っているというのは、名目あるいは建前であって、創業皇帝を別とすれば、ふつうには。皇帝個人が政務全般を知悉し、掌握し、直接指揮しているわけではない。事実はたいてい、宰相、大学士(王朝によって呼称はことなる)などと呼ばれる数人乃至十人内外の高官による集団指導がおこなわれている(この中央指導部を明代以降は「内閣」と言った)。これが知識人から成る壮大かつ複雑な官僚機構を指揮する。皇帝と、宰相・大学士等のブレインと、中央・地方の官僚とから成る統治機構が「国家(クオチア)」である。また「公家(コンチア)」とも言う。これは運命共同体である。

(高島俊男「中国の大盗賊・完全版」あとがきより)


南アフリカで開催されるFIFAワールドカップも、あと2週間あまりでスタートのようです。私個人としては、前回2006年大会の、あの日本対オーストラリアの試合を、オーストラリア人の友人と観戦してしまった、ということがトラウマになっています。

「サッカーなんかキライさ...ちゃらちゃら丸い球蹴るな、男は楕円球 。」

などとうそぶいておりますが、こわいものみたさで、多分しっかりと手にビールと汗を握りながら、テレビ画面にかじりついていることでしょう。

(これがラグビーだったら、来年のラグビーワールドカッップ、まちがってもニュージーランド人といっしょに、日本対ニュージーランド戦を観戦するなんてことはしない、と思うのですが...もしかしたら、来年の9月16日、そのとおりにしているかもしれません。しかもニュージーランドで。)

話がずれましたが、今回のサッカー・ワールドカップの予選B組各国に面白い共通点があるというご指摘をいただきました。ナイジェリア、韓国、アルゼンチン、ギリシャ。それぞれ1986、1997、1999、2010年にIMFに救済申請されています。

残念ながら、わが日本も今月、IMFより財政再建にむけて早期の増税に着手すべきだとの声明をうけてしまいました。

IMFさんにおかれては、各党が参院選に向けてマニフェスト作りに取り組む中、絶妙なタイミングで、

「だからあの時、いったじゃないか...」

と将来いえるよう、未来への布石を打ちにきたわけです。

昨日、閣議で管財務大臣は、

「対外純資産、19年連続世界一 266兆円、過去最高を更新」

と、報告したようですが、これも経済オンチとはいえ、IMF声明を受けて浮き足立ちそうな政治家仲間への目くらましなんじゃないかと、うがった見方をしてしまいます。閣議後の記者(クラブ)会見で、

「外から入ってくる方が減っているという傾向もあり、一概に喜んでばかりいられない...」

などと、一見バランスのとれたようなことを、おっしゃっておられるようですが、正直なところ、金融の現場はすでにそんなレベルの話じゃないというのが現状ではないでしょうか。

先日、私の知人の方が紹介されていた、対日投資の一つのアイディアが目に留まりました。日本国債をショートするという、日本政府、日銀、邦銀の「鉄三角」に正面からガチンコ勝負をしかけるのは避け、円をショートして、日本株をロングするというやり方です。円の「崩壊」は不可避として、極度な円安と、新興国並みの賃金コスト水準となる日本労働人口という「追い風」を受けて、日本の製造/輸出関連企業が息を吹き返すであろうというヨミです。

「デフレだ!」、「格差社会だ!」とおっしゃられる向きには、「泣きっ面にハチ」な未来予想図ですが、ようするに衆愚評論家のお歴々によって「デフレ」とやり玉にあがる現象の正体が、ただ単に「現行の日本経済モデルの世界経済という枠組みにおける適正価格」への修正に過ぎないという見方の一つの帰結といえるでしょう。

そうなるころには、かくして息を吹き返す日本企業のほとんどは、中国人を初め、台湾、韓国、その他の皆さんを大株主、またはオーナーとして迎えていることでしょう。日本はアジアで最も外資誘導環境が整った、理想の投資対象国となっているはずです。そうなってくれれば、上記した管さんのご心配も解決。あのソース会社の買収防衛の顛末なども、過去の忌まわしい記憶として風化していることでしょう。

しかし、さはさりながら、感傷的な発言であることは十分承知しておりますが、多分避けられない破綻を経たところで始まる、日本経済の復興を押し進める主役は、やはり日本人の資本であってほしいと、私は思うのです。

戦後の日本経済復興において消え去ってしまったものに、「財界」という存在があげられます。戦後民主主義の下における「悪平等主義」のせいでしょうか。経済界を指導する、資本家層のオピニオンリーダー的存在の不在は、危機に瀕したこの時機において痛感されます。「財界総理」といわれる人物が、会社経営と世論の狭間で進退に窮して、「社長としての発言」と「経団連会長としての発言」を使い分ける、などとおっしゃるのですから、なにおかいわんやでしょう。

きたる破綻と復興の時代においては、官僚組織の破綻(信用危機?)が前提となりますので、官僚の描いた図面通りに「右向け右」する資本ではなく、自らの意志と哲学をもった日本人資本家の出現が求められると思うのです。

それは渋沢栄一とか、松永安左衛門の系譜につらなる、日本経済人のイメージではないでしょうか。

中国の政治/社会文化と異なり、日本においては、一方的な「中央」への隷従という考え方は不自然なものです。中国文化においては「水滸伝」の好漢のようなヤクザでさえも、最後には凡庸な皇帝と汚職高官の犠牲となって、戦いの中で散華していきます。読者も観劇の聴衆も、そうした結末を諒として受け入れているのです。

しかし日本文化の基本は「御恩と奉公」。常に双方向。まともに生活と安全を保障してくれないのであれば、だれも「いざ鎌倉」しないのが常識なのです。「無償の犠牲」を日本古来よりの美徳のように言い立てるのは、「逃げ切り世代」の「品格屋」さんぐらいなものでしょう。

幕末、あれほど勤王家を自負していた徳川慶喜でさえも、王政復古の大号令の下、その所領の皇室への返還を迫られたとき、

「おそれながら徳川の所領は、父祖伝来の三河の地、そして弓矢の働きで自ら切り従えた駿河、 遠江の地の代わりとして、故関白殿下から賜った関八州はもとより、その他においても、これ一寸四方といえども皇室より頂戴したものに非ず。これを返せとは筋が通らぬお話。」

と見事なまでの法的議論で突っぱねたのですから、「王土王民」「一君万民」(最近では「党土党民」「一党独裁」)のお隣さんとは、水と油です。

国家とともに、国民まで貧乏になってしまっては、国が滅びます。聡明なアゴラ読者諸賢は、もうご承知のこととは存じますが、独立行政法人の天下り幹部でもないのに、破綻国家と一蓮托生などとは思い込まず、きたる日本の復興時代に、自分がどのような活躍をするのか、自らの「夢」の絵を描き始めるべきは今ではないでしょうか。

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