学校から言論の自由がなくなるって本当?―ある都立高校校長の「反乱」(1) - 北村隆司

2010年06月17日 10:00

現役の都立高校校長であった土肥信夫氏が、「職員会議での挙手・採決」を禁止する東京都教育委員会の通達に反旗を翻した「ある都立高校の反乱」をご存知の方は多いと思います。

この勇気ある行動に感心していた私は、最近縁あって、土肥さんご本人にお目にかかる機会を得ました。実際にお会いした土肥さんは、莚旗や拳を掲げる闘士の姿とは程遠く、明るく気さくなごく普通の先生と言う印象でした。


土肥さんは「自分が絶対に正しいなどとは思っておらず、自分の考えで生徒のため東京都の教育の為に頑張って来たに過ぎない」と繰り返し述べて居られましたが、教育に対する情熱は認めるとしても、話題が核心に入るに従い「現場を良く知る自分は正しい」と言う硬い姿勢が目立つ様になり、ご自分が思うほど「反対論者に耳を傾ける」タイプでは無い事も判りました。

私が、土肥さんの「職員会議での挙手採決の禁止は、学校から言論の自由を奪う」と言う主張に対して「挙手採決は、自由な意志表示を保障する無記名秘密投票を弾圧したスターリン、毛沢東時代の共産党や、現在の北朝鮮でよく使われ採決方式で、寧ろ自由な意志の表現を奪うのではないですか?」と質問しますと、ちょっと戸惑った土肥さんは、反論は出来ませんでしたが、ご自分の主張を変える事もありませんでした。

そこで私は「校長は学校の司会者ですか?それとも管理者でしょうか?」とお尋ねした処、「校長は管理者ですが、私は、全く意見が違う相手でも、その人が発言する権利については100%保障すると言う考え方を持っています。これが、民主主義の基本ルールだと思うのです。『挙手・採決』は教職員の意向を聞くために絶対に必要なプロセスで、これを禁止すると教員にとっては宝である生徒達にも影響が出てしまいます。民主主義の大切さを教えなければならない学校で、民主主義的な運営が否定される。そのしわ寄せは必ず生徒のところにいくのです」と仰るのでした。

管理職は微妙なバランスを勘案しながら物事を決めなければならない難しい職責です。経営判断を採決に委ねる事は、結果責任を問われる管理者としての責任を放棄する事になりかねません。ピーター・ドラッカーはその名著「マネジメント」で「組織体社会になった今日、企業、学校、病院,軍隊、政府機関を問わず、これ等の新しい組織体に必要な機関は経営陣」だと、目的達成の為に組織を巧く機能させる経営者(学校においては校長)の役割が事のほか重要になってきたと指摘しています。

挙手採決の禁止が「民主主義的運営の否定だ」と言う土肥さんの民主主義論は「多数決は時間に追われて已む無く使う手段で、民主主義の基本は説得と納得だ」と教わってきた私には不思議な解釈でした。私の意見では「挙手・採決」は、学校の言論の自由を守るどころか、組織された外部の政治的意見を職員全体の意見として強制する恐れすらあると思っています。

別れ際に、今回の事件の顛末を纏めた小冊子を頂き、早速読ませて頂きましたが、日本の教育が直面している問題を知るには大変参考になりました。

この冊子には、「学校に自由の風を!」と言う市民団体を始めとする支援団体やお馴染みの進歩派の教育学者などが名を連ねたのに加え「現職校長が異議『教員口閉ざす』と撤回要求』(毎日新聞)「職員会議の意志守れ 現職校長、 撤回要求」(朝日新聞)「もの言えぬ人々」(TBSテレビ特集)など、大手メデイアの支援メッセージと間違える見出しが並んでいました。

土肥さんが外部の応援団体の影響を強く受けている事は、この小冊子を読むとはっきりしますが、その人柄からも「挙手・採決」と「学校の自由」を意識的にすりかえているとは思えません。唯、判断が未熟な生徒に向かい「職員会議での挙手採決の禁止が民主主義と自由を否定する」と教えるとしたらとんでもない事です。

土肥さんの言われる言論の自由にも疑問を感じました。私は、憲法が保障する国民の基本的人権としての言論の自由は、個人に与えられたもので、教員が業務を遂行する過程での言論に適用されるとは思っていません。

この小冊子に登場する、国旗掲揚や国家斉唱の義務付けが憲法違反だと主張する人々が、私学への助成金が日本国憲法第89条の「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」に違反していると抗議した話は聞いた事がありません。

内田樹教授はその著「日本辺境論」で、オバマ演説を日本人が出来ない理由として「日本国民は国家的危機に際会した時に『私たちはそもそも何のためにこの国を作ったのか』という問いに立ち帰りません。私達の国は理念に基ずいて作られた物ではないからです。私達には立ち帰るべき初期設定がないのです。」と書いています。

この書の指摘する通り、日本では「自衛権と再軍備」「首相の靖国参拝」から「国旗掲揚、国家斉唱」「学校の言論の自由」に至るまで、国家の最高規範としての憲法の解釈が「そもそも論を省いた」ご都合主義に傾き過ぎます。

日本で「自由や民主」を論ずる時、原点に立ち帰ってから論議する習慣が身に着くのは何時の事でしょう?

                   ニューヨークにて   北村隆司

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