現役の都立高校校長であった土肥信夫氏が、「職員会議での挙手・採決」を禁止する東京都教育委員会の通達に反旗を翻した「ある都立高校の反乱」をご存知の方は多いと思います。
この勇気ある行動に感心していた私は、最近縁あって、土肥さんご本人にお目にかかる機会を得ました。実際にお会いした土肥さんは、莚旗や拳を掲げる闘士の姿とは程遠く、明るく気さくなごく普通の先生と言う印象でした。
土肥さんは「自分が絶対に正しいなどとは思っておらず、自分の考えで生徒のため東京都の教育の為に頑張って来たに過ぎない」と繰り返し述べて居られましたが、教育に対する情熱は認めるとしても、話題が核心に入るに従い「現場を良く知る自分は正しい」と言う硬い姿勢が目立つ様になり、ご自分が思うほど「反対論者に耳を傾ける」タイプでは無い事も判りました。
私が、土肥さんの「職員会議での挙手採決の禁止は、学校から言論の自由を奪う」と言う主張に対して「挙手採決は、自由な意志表示を保障する無記名秘密投票を弾圧したスターリン、毛沢東時代の共産党や、現在の北朝鮮でよく使われ採決方式で、寧ろ自由な意志の表現を奪うのではないですか?」と質問しますと、ちょっと戸惑った土肥さんは、反論は出来ませんでしたが、ご自分の主張を変える事もありませんでした。
そこで私は「校長は学校の司会者ですか?それとも管理者でしょうか?」とお尋ねした処、「校長は管理者ですが、私は、全く意見が違う相手でも、その人が発言する権利については100%保障すると言う考え方を持っています。これが、民主主義の基本ルールだと思うのです。『挙手・採決』は教職員の意向を聞くために絶対に必要なプロセスで、これを禁止すると教員にとっては宝である生徒達にも影響が出てしまいます。民主主義の大切さを教えなければならない学校で、民主主義的な運営が否定される。そのしわ寄せは必ず生徒のところにいくのです」と仰るのでした。
管理職は微妙なバランスを勘案しながら物事を決めなければならない難しい職責です。経営判断を採決に委ねる事は、結果責任を問われる管理者としての責任を放棄する事になりかねません。ピーター・ドラッカーはその名著「マネジメント」で「組織体社会になった今日、企業、学校、病院,軍隊、政府機関を問わず、これ等の新しい組織体に必要な機関は経営陣」だと、目的達成の為に組織を巧く機能させる経営者(学校においては校長)の役割が事のほか重要になってきたと指摘しています。
挙手採決の禁止が「民主主義的運営の否定だ」と言う土肥さんの民主主義論は「多数決は時間に追われて已む無く使う手段で、民主主義の基本は説得と納得だ」と教わってきた私には不思議な解釈でした。私の意見では「挙手・採決」は、学校の言論の自由を守るどころか、組織された外部の政治的意見を職員全体の意見として強制する恐れすらあると思っています。
別れ際に、今回の事件の顛末を纏めた小冊子を頂き、早速読ませて頂きましたが、日本の教育が直面している問題を知るには大変参考になりました。
この冊子には、「学校に自由の風を!」と言う市民団体を始めとする支援団体やお馴染みの進歩派の教育学者などが名を連ねたのに加え「現職校長が異議『教員口閉ざす』と撤回要求』(毎日新聞)「職員会議の意志守れ 現職校長、 撤回要求」(朝日新聞)「もの言えぬ人々」(TBSテレビ特集)など、大手メデイアの支援メッセージと間違える見出しが並んでいました。
土肥さんが外部の応援団体の影響を強く受けている事は、この小冊子を読むとはっきりしますが、その人柄からも「挙手・採決」と「学校の自由」を意識的にすりかえているとは思えません。唯、判断が未熟な生徒に向かい「職員会議での挙手採決の禁止が民主主義と自由を否定する」と教えるとしたらとんでもない事です。
土肥さんの言われる言論の自由にも疑問を感じました。私は、憲法が保障する国民の基本的人権としての言論の自由は、個人に与えられたもので、教員が業務を遂行する過程での言論に適用されるとは思っていません。
この小冊子に登場する、国旗掲揚や国家斉唱の義務付けが憲法違反だと主張する人々が、私学への助成金が日本国憲法第89条の「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」に違反していると抗議した話は聞いた事がありません。
内田樹教授はその著「日本辺境論」で、オバマ演説を日本人が出来ない理由として「日本国民は国家的危機に際会した時に『私たちはそもそも何のためにこの国を作ったのか』という問いに立ち帰りません。私達の国は理念に基ずいて作られた物ではないからです。私達には立ち帰るべき初期設定がないのです。」と書いています。
この書の指摘する通り、日本では「自衛権と再軍備」「首相の靖国参拝」から「国旗掲揚、国家斉唱」「学校の言論の自由」に至るまで、国家の最高規範としての憲法の解釈が「そもそも論を省いた」ご都合主義に傾き過ぎます。
日本で「自由や民主」を論ずる時、原点に立ち帰ってから論議する習慣が身に着くのは何時の事でしょう?
ニューヨークにて 北村隆司
コメント
民主主義「的」な運営と、民主主義そのものは違います。
いわれるような説得と納得とがなければ、何も出来ない、
すべきではないと言われるのでしょうか?
実際、と言うよりは異論がある状態のままである方が、
誰もが全く異論を持たない状態よりも自然でしょう。
時間をかけて異論を無くすなどというのは、幻想か若しくは
危険な思想統制を必要とする考えでしょう。
「説得や納得」という結果よりも、異論があるという状況が
大切なのです。
違った考えがある、賛成反対があるということを理解し、
それを確認した上で運営されていくのが民主主義の実際で
はないでしょうか。
そうであれば、土肥信夫氏の姿勢と思想は、むしろ真摯な
ものと評価すべきでしょう。
彼は挙手によって特定の思想を封じようとすることも
否定しているわけですしね。
あなたの論は、実際には日教組などを敵視し、その批判の
ために土肥信夫氏を利用しているようです。
すいません。モノの発端をご存知ないんです。
採決の禁止?とか……。
自分の解釈では問題は
①学校の意思決定を採決に委ねることが最高責任者である校長の責任放棄であること
②他人から承認を受けたように振る舞い教師の立場から意見する事
の二つにあると思います。
①については学校を会社に置き換えて考えた方が良いと思います。本人は一教師のつもりでも外の人は校長を責任者と見ます。責任を伴う意思決定を他人に任せる人は信用なりませんし、そこに民主主義を持ち込む事はナンセンスです。
②については擬似的な民主主義の手法を用いてあたかも学校の教職員の総意のように名乗り、本物の民主主義で選ばれたお上に逆らう事の間違い、とも言えるかもしれません。田母神幕僚長の例も同じく、意見するなら職を辞して一個人の立場からすべきです。
wishborn2400さん
前提としてこの話の教師は公務員ですよね?
文部科学省の方針にしたがって、実務に当たるのがこの人たちの役割ですよね?
一公務員に教育方針を変える権限があるとお考えですか?
あなたの「説得や納得」に対する解釈も間違っています。
これは一方的に考えを押し付けるのでなく、議論により問題の着地点を見つけるプロセスと言えます。
対する多数決は、単純に人数で決まるだけの出来レースじゃないですか。簡単に少数派の意見が黙殺される、これこそ思想統制といえるでしょう。
税金で食っている公僕でありながら、思想活動に精を出す、
自由を語りたいなら、雑踏でポエムでも売ればいい。
srx600_2さん
多数決は良くも悪くも民主主義の基本でしょう。
出来レースで思想統制であるなら選挙も国会運営も株主制度も思想統制な出来レースですね。
発言の機会が与えられることと、採決で意思決定をすることは別問題ではないかと思うのですが。
部下の話を聞くのも意思決定に必要な情報収集だと思いますが。
校長のマネジメントの方法論の問題と天下国家のお話を混同する手法こそ「応援団体」的だと思います。
shuu0522さん
平たく言えばそうなってしまいますね、だからマスコミも日教組も必死になってるんですよ。
日本のは民主主義というより衆愚主義、より多くの人を洗脳したほうが勝ちです。
別に選挙や国会運営を否定しませんが、学校内で政治活動をするなと言いたいわけですよ。
この多数決も、日教組・全教祖とそれ以外の教職員の対立を煽るだけの気がしますよ。
srx600_2さん
教育方針そのものが民主的な社会を形成するためのもの
でなければ、誰が決めようと、誰が変えようと問題なのです。
つまり、ある種の思想をもった組織なり集団なりが、自分達以外を
排除するような教育方針を掲げるのであれば、それが多数決で
決められたものであろうが批判されるべきなのです。
思想統制そのものが民主的な社会とは相容れないものです、例えば
北朝鮮の主体思想で固められた人々に民主的な社会運営ができる
と考えるのは無理がありますよね。
特に、未来の民主主義社会を担う子供達を教育する場においては
重要なことでしょう。公務員であると割り切って、ある種の思想を
子供達に強いることを甘受する教員もダメなら、自分の政治信条を
子供達にすりこむ教員もダメでしょう。両者に大差はありません。
私は、そのどちらも批判します。
文部科学省が、あなたの言う「一方的に考えを押し付ける」ことを
しようとした場合、公務員はすべきでしょうか?
納得や説得というのは、北村さんの主張の問題点を指摘したもので
すよ。納得や説得がなければ問題だというのならば、思想統制でも
しないかぎり現実社会では決まらないことが多すぎるでしょうね。
大切なことは、土肥さんのように賛成も反対もキチンと意見がいえる
主張できる環境を、社会を維持し(この時点で押し付けではなく、
最低限の相互尊重がなされています)それぞれの意見に、各々が
真摯に耳を傾け、みんなにとって良いと思えることを選択することです。
納得や説得というのは、言葉だけならキレイですが、それを実際に
社会的な選択の必須要件にしようとすれば、あなたの批判する
少数意見の「黙」殺どころか、少数意見そのものを具体的に排除
することに繋がりかねません。危険なことです。
Wishborn2400さん、“文部科学省が、あなたの言う「一方的に考えを押し付ける」ことを しようとした場合、”公務員は受け入れるか、退職するかの二つに1つでは。その指令が違憲であれると思うのであれば、国を相手にした訴訟ではないでしょうか。
お話されている事が、もっともらしく見えますが、公務員としての教員の役割は、生徒に教育を授けることが職務です。学校運営に民主的な方法論を導入させ、個々の教員の意見を学校運営に反映させるために存在するわけではありません。学校の運営方針の改革に携わりたいのであれば、教員を退職し、学校の運営方針の改革に携われる職種に転職すればよいことです。
ご指摘のとおり、民主主義とはどのようなものかと言う事を、生徒に教育することは非常に大事だと思います。ただし、教育方針に関して、現場の個々の教員の個人的な意見によって、公教育の方針が変更されるのはどう考えてもおかしいと思います。教育を受けるのは生徒であり、生徒が国民として等しい教育を受ける権利を収奪する行為だと思います。何処の国でも、教育方針には”自国民に持って欲しい愛国心を育てるための思想教育”を含んでいるはずです(日本とアメリカの教育を経験しています、その他の国に関しては、伝聞からの推測です)。これが全くなければ、国民という意識が芽生えず、国に対する帰属意識の乏しい集団が生まれます。”自国民に持って欲しい思想”を含んでいることを思想統制と呼ぶのであればそのとおりなのでしょう。その、国の教育方針に従えないのであれば、退職すればよいのです。組織の外にでてから、正々堂々議論をすればよいのです。
公教育の理念に反対であるならば、自分の理念にあった職場(私塾など)に転職し、そこで自らの教育理念を公開した上で、その教育方針に賛同する生徒に教育を授ければ良いのです。
wishborn2400さん
あなたの言ってる事は間違っていないし、所謂民主主義のシステム自体は機能しています。しかしその上で思想統制が行われているのが今の日本だと思います。
問題なのは、日教組が学校を思想闘争の場にしている事で、これを民主主義的というのは違和感を感じる。
彼らの目的もまた思想の統制で、自由な言論をもたらすとは考えていません。
主体思想のようなエキセントリックなものではなく、普遍的な国の理念をそろそろ考えるべきだと思います。
学校を思想闘争の場にしてるのは別に日教組だけに限りませんね。現場に働きかけるもの、政治に働きかけるもの、いろいろな形で教育現場に自己の主張を織り込もうとしている勢力が昔から無数にありますね。
今の社会人をみても、どこかの勢力の思想に統制されているようには見せませんが。
思想統制って言うのが良くわかりませんが、教育が属人的な行われ方をしている限り、教員の個人的なものが影響するのは避けられませんし、まったく誰の影響も受けない「自由な思想」って成立しうるのでしょうか?
ある種の無味無臭を装うより、諸派乱立する何でもあり的な現状の方がましに思います。国の理念とやらも全員の総意をとろうとすることも統制であり、総意をとらずに決めるのもまた統制であり、理念などないのもまた理念ということでいいと思いますが。
僕は今の日本、自由だし、嫌いじゃないですよ。
いろいろと御意見をいただき有難う御座います。
まず、第一に最初の文書でも冒頭に書いたことなのですが、
民主主義「的」な政治手法と、その理念たる民主主義は
本質的に別のものです。
そのため現実の場においては様々な制約により、「説得と
納得」という北村さんのいう民主主義が完全に実施できる
ことは稀であり、(正論ではありましょうが、画餅というべき
性質のものでしょう)具体的には多数決という手法を使うことが
多いわけですが、これそのものは民主主義的な手法とは
言いがたいものです。
民主的でない人々が多数決をしたところで、その結果は
民主主義の否定であってもよいからです。
では、多数決が「民主的」であるためには何が必要でしょうか?
意見表明が出来ること?議論という過程を経ること?
それらは要件、あるいは民主的であるかという指標には使える
かもしれませんが、その本質ではありません。
北村さんが、こちらの文で言われるように権力者からの弾圧に
利用される場合もあるからです。しかし、北村さんの支持する
無記名投票には不正の防止の観点から問題があります。
また、無記名投票の必要があるという状況(それをしなれば弾圧を
受ける可能性がある等)そのものにも問題があるでしょう。
代表制民主主義を採用する場合には、選挙の立候補者がどのよう
な選択を行ったかは、有権者にとって重要なことです。
具体的な手法には、何某か問題が生じます。
土肥さんは、その現実のなかに居たわけですね。
それが民主主義の理想に完全に合致しないからといっても、
致し方ないことでしょう。それを責めるのは酷というものです。
では何が重要か?その手法を用いる人々が民主的であることです。
他の意見を尊重し、耳を傾け、配慮し、みんなにとってよいことを
選択する人々であることです。
それでも、民主主義の理想は完全には実現できないでしょう。
「説得や納得」の為に無限に時間や労力、財を費やすことは
出来ませんし、「説得や納得」が最初から得られるように教育
するというのは、本末転倒というものです。
また、一度決まったものにしても、異論に耳を傾けることで修正する
こともできます。異論があることが維持されることはむしろ価値ある
ことなのです。一度決まったら絶対に止まらない公共事業では
困りますよね。
大切なのは、個々人が民主主義を理解し、それぞれの場所で、
それを擁護し、維持し、追求していくことなのです。
困難ですが、諦めないで根気よく。
それは誰か特別な人の話でなく、民主主義社会の担い手
すべてに要求されています。
教員の挙手採決にしても、末端の公務員が単なる公権力の
担い手であるというような、例えば主権者たる民でなく意志を
持たない命令をそのままに実行する機械で代替が可能である
と考えるならば、それを排除したところで問題はないでしょう。
しかし、そうでなければ社会の一員として彼らの個々の関わり
はむしろ重要なのです。
それが末端であるがゆえに、場合によっては最後のストッパーに
もなりえるからです。
公務員であるからでなく、それ以前に国民として。
教員の挙手採決については、現実に公教育が出来なくなっている
というのであれば問題ですが、それがどのくらいか続いていたもので
あるならば、その批判には無理があります。
現実を説明出来ていません。個々の学校の運営は、教育委員会
の意向を受けて職員会議を経て実効されてきたという実績が
あるだけです。
挙手採決に限らず、公教育における学校教育の運営手法に関して
賛成するにしても、反対するにしても、その動機が何か
特定の思想に基づき、あるいは特定の思想の排除の為になされた
ものであれば、それはその故に批判されるべきです。
usa67さんの主張については、一つの考え方として理解できますが
あまり精緻なものとは思われません。
どこの国でもやっているであろうと、あなたがいう愛国心教育ですがそういことですと中国でも、北朝鮮でもしているでしょう。
そこの教員は上からの命令に絶対かもしれません。
彼ら自身もそういう教育を受けているでしょうしね。
より徹底されているのではないでしょうか?
日本も、戦中の教育現場はこれに近かったかもしれませんね。
愛国心教育や、権力に盲従する公務員が必要だという主張は
ちょっとよくわかりませんね。今の日本の教育の方が、ずっと
まともに思えます。いずれにしても私の問題としている民主主義
の問題とは直接の争点はなさそうです。
長くなってしまい申し訳ありません。しかし、こういう議論には
ある程度紙幅が必要なものですね。
> 「私達の国は理念に基ずいて作られた物ではないからです。私達には立ち帰るべき初期設定がないのです。」
日本にはっきりとした理念があった時代があります。 ポツダム宣言を受け入れるべきかどうかが火急の課題となったとき。 守るべきは「国体の護持」だけでした。 この理念にこだわらない決定ができたのは、昭和天皇だけでした。 木戸内大臣や東郷外相の手記を読むとよくわかります。
北村さんはよくご存知だとおもいますが、米国の法律や組織の規則には、 被管理者の権利を守る条項が多く含まれています。 これを知らないか守らない日系企業がよく裁判に訴えられます。
私は、 日本において決定的に欠けているのは、基本的人権の理念だとおもいます。
「国体の護持」に替わるべき、 多くの国民の合意がえられる理念はなんでしょうか?
北村さんが息子さんを預けられました英国のパブリック・スクールは、 生徒の自主性を育てるべく教育がおこなわれると聞いております。 それに比べて、 日本の校長先生はがちがちにしめつけらてれあわれですね。
「職員会議での挙手・採決」を禁止する通達をどう思うか、 英国人・米国人にたずねてみてください。
> 教員の個人的な意見によって、公教育の方針が変更されるのはどう考えてもおかしいと思います。
例外的でしょうが、次のような例もあります。
ナチスが欧州を席捲していたとき、 リスト二ア駐在の日本の外交官杉原千畝氏は、 日本の外務省の訓令に従わず、ポーランドからリスト二ア・日本経由で、 アメリカに逃げようとする6000人のユダヤ人に対して、日本国通過ビザを発行しました。
ヴエトナム戦争中の話です。 ヘリコプターの操縦士である米国兵が、 地上で米軍の部隊がヴエトナムの住民に対して無差別射撃を行っているのを見つけました。 そこで、 その兵士は友軍と住民の間を彼の操縦するヘリコプターで飛び交い、自国の軍隊の行為を妨害しました。 それから30余年もたち、クリントン大統領は、 彼の勇気ある行動をほめたたえ、 彼に勲章を授与しました。
なにか、論点がずれていませんか?
教育における方針の意思決定は教育委員会が行い、それを受けて校長が職員に指示、伝達をする場、それが職員会議です。職員会議で挙手。採決、つまり意思決定を行うのが越権行為で不当なのは自明のことだと思います。言いかえれば、これは民主主義の在り方がどうとか言う難しい話ではなく、公立学校における組織マネジメントとかガバナンスの問題です。
現場が上の方針を気に入らないからと言って方針に従わないなんてもう組織じゃないですよ。そんなに気に入らないなら退職すべきです。在職するなら自分の考えがどうであろうとそれは隠して職務を遂行するのが職業人として最低のモラルでしょう。そんなことも分からない人間が子供たちにその自分勝手な理屈を教え込んでいるなんて、教えられた子供やそれを受け入れる社会にとって大迷惑です。怒りがこみ上げてきますね。