クリエイターとしての生き方について。ー小川浩( @ogawakazuhiro )

表現者は、その内容もさることながら、表現技術やテイストにも責任をとらねばならない。
そういう意図のエントリーをします。

僕は経営者である以上に、自分をクリエイティブディレクターであると任じています。だから、自分が関わる商品やサービスにおけるトンマナ(トーン&マナー)には責任を負いたい。
僕は文章を書き、そして多くの人に読んでいただく機会を多くいただいている幸せな人間です。だから、文体にもこだわるし、内容をできるだけコンパクトに、簡潔に表現する作業も大事だと思っています。つまり、自分の意見は自分で書くし、自分のプレゼンならば資料も全て自分で作ります。

でも、それは少数派らしいのです。僕の知るIT業界での著作者のほとんどは口述で、プロのライターに書いてもらっています。大切なのは内容だから、それでいい、という人もいると思いますが、僕には無理です。それはまるで、クチパクの歌手のライブのようです。生の歌声を聴けないならCDのほうがマシです。
あるいは、アクション映画なのに、ヒーローを演じるスターが、ほとんどのアクションシーンをスタントマンで済ませていたとしたら?決して見たいとは思わないはずです。

違いますか?


実は今、僕としては14冊めとなる本を書いています。
本業も本当に忙しく、さまざまなことに忙殺されているので、今回に限ってはなかなか進まないのですが、この週末には書き上げねばならないという、苦しい状況です。

ところが、正直に告白すると、それだけではなく、7月10日までに、電子書籍を含み、あと2冊(=計3冊)書かないとならないのです。実際、寝不足とプレッシャーで死にかけてます(T . T)

冒頭で書いたように、僕には会社を経営するという本業があり、本を書いたり、講演をしたりするのは、あくまで本業との強いリンクがあるからです。僕はジャーナリストではないので、自分たちが考える新しい世界像や、それに関わる技術などの啓蒙活動として、血がにじむような思いをしながら時間を捻出し、こうして著作にむかっています。
だからその目的のためならば、ゴーストライターでも使った方が効率がよいはずです。

でも、できない。

それは、僕がクリエイターだからです。

文体や、センテンスを追っていただくためのリズム。僕だけの、オリジナルの文体を使って思うところを表現したい、と思っています。

それは意地とも言えるし、プライドとも言えます。
しかし、これは僕の本ですよ、と、読者にお金を払って買っていただくならば、やはり自分で書かなければ申し訳がない。代筆なんて、恥ずかしくてお金をいただくこととはできないのです。

起業家としてもそうです。
人真似、猿真似は死んでもいやです。プライドがあるからです。

ベンチャーならば、あるいはこれから社会に出る若者ならば、死んでもいいから闘争せよ、と、このBlogでアジったことがあります。

もう一度、はっぱをかけましょう。
クチパクみたいな人生をおくるなと。
たかだか80年の人生です。そのうち社会の現役だと言えるのは40年かそこらです。
人真似や、誰かに依存するのではなく、オリジナルの人生を生きましょう。人生にゴーストライターはいません。
一度でも使ってしまったら、後戻りできなくなりますよ。

コメント

  1. はんてふ より:

    人生のオリジナリティって何でしょう?
    若いうちからオリジナリティが在る人というのは
    本当に稀な気がします。

    小川さんは、人生の中の「選択」を通して
    今のオリジナリティを獲得したのだとしたら、
    若い人も、限界の中で選択をするしかない。

    オリジナリティの困難さとは、
    自分らしい選択というものを続けていたつもりでも、
    結果としては「模倣」になってしまう事がままある。

    強烈に専門性を、強烈に古典への学びを
    続けていけば、オリジナリティの一片は
    獲得できるのかも知れません。

    技術レベルはポスト・モダンの時代になろうと
    している今、
    「個性」という考え方自体が陳腐化しているようにも
    僕は思います。

  2. ryu2net より:

    作家性やオリジナリティの議論は、実は構造主義を乗り越えたかたちじゃないと、あまり意味をなさないのでは?

    構造主義的に言えば、作家性よりもその背後にある文化的なバックグラウンドや、そこにある規則やコード自体を批評する必要がある、ということになる。小川さんも、今のこの日本に生まれて、日本語で書いている以上、いろんな影響を受けており、決して「オリジナル」なんて言えないんですよ、ということ。多くの作家やクリエーターとの依存関係にある。これをロラン・バルトは「作家の死」と言った。言葉をゼロから生み出したり、誰も使っていない言葉の使い方をしていたら別ですが。

    その構造主義の議論を踏まえていない今回のエントリーは、どうもナイーブな感じがしてしまいます。

    あともうひとつは細かいことですが、「ディレクター」と「クリエーター」とは別で、ディレクター自ら手を動かさなくてはならない、ということを主張されているのでしょうか? 「コードを自分で書かなければクリエーターではない」は成立しますが、小川さんの職種で言えば、コードを自分で書くことは必須ではないように思います。

    「シンガーソングライターでなければミュージシャンと呼べない」みたいな議論に聞こえました。文章は文章のプロに任せて何が悪いんでしょう?

    とがらにもなく、議論をしかけてみました(笑)